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嗜欲喜怒の情は、賢愚皆同じ [処世]

 人間は皆、似たようなものであり、そんなに差があるものではない。
これは孔子の「有数無類」(人は教育によって善にも悪にもなるのであって、人間の種類に善・悪があるわけではない)以来の、中国の伝統的な考え方の一つである。魏徴も「嗜欲喜怒の情は、賢愚皆同じ」(論慎終第四十・第七章)。いわば、嗜欲とか喜怒の情は、賢者も愚者も基本的に変わりありませんといっている。違うのは、「賢者は能(よ)く之(これ)を節して、度に過ぎしめず、愚者は之を縦(ほしいまま)にして、多く所を失うに至る」という点だけである、と。
 私は収賄事件を耳にするたびに魏徴のこの言葉を思い出す。というのは収賄者の中に、「必需」すなままならず、日々の生活に困っている人は、新聞などで見る限り皆無だからである。それもそのはず、賄賂が取れるのは取れる位置にいるからであり、そういう位置にいる人は、必ず相当な収入があるからである。さらに、そういう権力・権限をんもちうる位置まで昇れる人は、愚者であるはずがない。
もっとも門閥や血縁が絶対的な社会なら別だが、中国も日本も、基本的にはテストで昇進する社会であり、テストに通るためには、何らかの意味で「賢」でなければならない。いわばものすごい競争に勝って一流大学に入り、さらにむずかしい試験を通って国家公務員、一流社会の会社員、大学の教授候補となった人たちが「愚」であることはあり得ない。だがそういう人が、さまざまな事件を起こして新聞紙上に登場する。

帝王学―「貞観政要」の読み方
山本 七平 (著)
日本経済新聞社 (2001/3/1)
P137

 

 

 

 

DSC_2981 (Small).JPG宗像大社


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