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応神天皇 [雑学]

  大阪湾沿岸の平野における弥生式農耕が最初の大成熟期をむかえるのは、三世紀末から四世紀にかけてであろう。
この時期に、応神天皇といわれる専制者が、出現した。その古墳はよく知られているように大阪府旧南河内郡にある巨大な陵墓だが、要するにこれだけの大土木を可能にするだけの大権力が成立するほど、生産があがり、人口がふえ、支配圏がひろがった。
 ―応神天皇は、応神王朝という新しい王朝の始祖である。
 という水野祐氏のすぐれた説は、その後、その説の上に、他の多くのあたらしい見方が築かれた。
たとえば応神の権力には、海外へのひろがりがある。この時期、朝鮮半島でも、大変動があった。
四世紀はじめに中国支配圏の楽浪がほろび、本来の朝鮮半島民族である高句麗がおこり、南鮮の小さな部族国家が滅んで、新羅・百済という広域国家ができあがった。この朝鮮半島の大変動によってはみ出たひとびとが、海をわたって応神王朝の傘下に入った。
伝説上の学者である王仁(わに)や阿知使主(あちのおみ)といった漢文化を身につけたひとびとが朝鮮半島から渡来したとされるのも、この時期である。応神王朝は日本における最初の広域権力であろう。
「日本書記」の記述を信ずるわけではなく、これを想像の手掛かりにするとして、応神天皇の五年八月のくだりに、諸国に令して「海人部(あまべ)」と「山守部」をさだめたとある。そのときに淡路の漁民が、海人部という、王朝直属の技能民として支配された。獲れたあわびなどを船にのせ、大阪湾を漕ぎわたり(おそらくいまの西宮市の浜に上陸したであろう)それら海の幸を宮廷の台所におさめるのである。農業で成立した広域権力が、漁業を隷属させた。
 部(べ)というのは津田左右博士はその語源が朝鮮半島南部の百済のことばであるとされた。部の制度もまた百済の制度にあったにちがいない。それを応神朝という名称で象徴される大阪湾沿岸の古代権力がとり入れた。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P120


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