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フェラーリ要る? [人生]

人間が生きていくために絶対に必要なものを「必需」とすれば、それは驚くほど少なく、石田梅岩の言葉を平易になおせば「食は満腹すればよく、衣は寒暖に応ずればよく、家は雨露をしのげば足りる」はずである。もっとも、職業によっては、現代では電卓・電話・車は「必需」であり、それなしに生活していけない場合もある。
さらに社会には「常識というルール」があり、それを無視すれば「失礼な」ということになって社会の信頼を失い、人間関係を阻害する場合もあるから、これらは常識的に必要なもの、いわば「常需」というべきものかも知れない。だが、この「必需・常需」もその必要の限度を考えれば、決して無限に膨張するものではない。いわばこれらは「実需」であって、「虚需」ではないから限度がある。しかし「虚」は、そうはいかない。

帝王学―「貞観政要」の読み方
山本 七平 (著)
日本経済新聞社 (2001/3/1)
P113

P121
 太宗は、帝王にふさわしい立派な馬が欲しかったのであろう。それに対して、魏徴は次のようにつづけた。「昔、漢の文帝に一日千里走る名馬を献上した者がございました。
ところが、文帝は次のようにいわれました。「私が祭祀などで平時に行幸するときは一日三十里、戦時などの行軍は一日五十里、前には天子の旗を持つ者がおり、しかも車輌が後続している。私一人だけが千里の馬に乗って一体どこへ行けというのか」と。
そして、献上のためにつれてきた費用を与えまして、これを返させました。
また後漢の光武帝は、千里の馬と宝剣を献上されますと、馬は太鼓を乗せる車をひかせ、剣は騎士に与えられました」と。
そして、魏徴はここで「陛下は理想的といわれる三王を超える業績を果たされましたのに、どうしてここで文帝や光武帝以下になりたいようなことをなさるのですか・・・・・」という形で、とどめを刺された。太宗は、すぐにこれをやめさせた。
 確かに、一日に三十里か五十里の行程ならば、千里の馬はいらない。これが必要なのはむしろ伝令であろう。
また、都内や日本のハイウエーでは時速二五〇キロの車はいらない。これが必要なのは、広大なアメリカのハイウエーであろう。
そんなことは、いわれてみればその通りなのである。では、なぜそれを欲しがるか。「おれは他と違って千里の馬に乗っているぞ」という虚栄心の充足にすぎないであろう。太宗がそれを求めたのは、明らかに「虚需」である。


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