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世襲 [処世]

 では、太宗は政務多忙で、子供の教育に無関心だったのであろうか。決してそうではない。彼は、「二代目」でうまくいかなくなることを知っていた。ここにも、反面教師煬帝があったであろう。
従ってむしろ、一種の危機感を常に持つ「教育パパ」だったといってよい。
「貞観十年、太宗、房玄齢に謂いて曰く・・・・・」(教誠太子諸王第一・第五章)につづく太宗の言葉は、その基本的な理由をよく理解していたものと思われる。
「前代の乱世を治めた創業の君主を次々に観察すると、民間に成長し、皆、情(真)も偽もよく知っているから、破亡に至る者はまれであった。世つぎの守成の君に及ぶと、生まれながらにして富貴で、世の苦難を知らず、そのため時には一族皆殺しにされるまで至る。
私は若い時から、経営多難という経験があり、くわしく世の中のことを知っているけれども、それでもなお、及ばない所あろいうかと恐れる。
わが子の荊王やその弟たちに至っては、奥深い宮中に育ち、識見が遠くに及ばない。そうして私が経験したようなことを、思うことができようか。
私は一食ごとに耕作の苦難を思い、一衣ごとに紡績の辛苦を思う。しかし、諸子弟は私に学ぶことができない。いまよい補佐を選んで、諸王の輔弼(ほひつ)とする。
願わくばこの善人の近くで習い、多くの罪過を免れることができるようにしたい」と。
~中略~
そこで魏徴に命じて、古来の帝王の子弟の成功と失敗の例を記録させ、「諸侯王善悪録」と名づけて諸王子に賜わった」と。
 その一部を引用しよう。
確かにさまざまな例があるが、「其の盛衰を考え、其の興滅を察するに、功成り名立つは、咸(ことごと)く始封の君に資(よ)り、国喪(ほろ)び身亡(ほろ)ぶるは、多く継体(後継者)の后(きみ)に因る。其の故は何ぞや」。
一体理由は何であろう。「始封の君は天下がまだ定まらない時に直面し、王業の創業の国難を見、父兄の辛苦を知った。それゆえ上にあっても驕慢にならず、早朝から夜中まで精励して倦(う)むことなく、常に細かい配慮を怠らなかった。たとえば、楚の元王は酒を好まぬ賢人のためには特に甘酒を用意し、周公旦は食事中に来客があると口中の食物を吐き出して賢士を出迎えた。
このようにして、耳に逆らう忠言を喜んで受け入れ、人民の歓心を得、生前に功徳を立て、死後にまでその仁愛は伝わった。
だが、その子孫である後継者となると、多くは太平の世に宮殿の奥で生まれ、女官たちに育てられ、位が高いことは危険を招くことだという配慮が全くない、またどうして農業の辛苦を知っていようか。
そのうえ、小人と親しみ賢人君主を遠ざけ、いわゆる利口な女にまといつき、明徳の人には威張って逆らい、義を犯し礼に悖(もと)り、淫荒に限度なく、法律を尊重せず身分を越えて上をしのぎ、権力と寵愛をたのんで嫡子を廃しようとする野心をもち、わずかな功労を誇って、ついにあくことなき野望をもち、忠実貞純の正道を捨て、姦邪の迷える横道を踏み、諫言にそむき卜占を無視し、迷って正しきに返ることを知らない・・・・・」と。

帝王学―「貞観政要」の読み方
山本 七平 (著)
日本経済新聞社 (2001/3/1)
P176

帝王学―「貞観政要」の読み方

帝王学―「貞観政要」の読み方

  • 作者: 山本 七平
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版
  • 発売日: 2021/03/16
  • メディア: 単行本

P179
いいかえれば、世襲制度は制度として基本的に無理があるということである。そして、後述するように最終的には一種の制限選挙のような形で後継者を選んでいる。
幸い現代では、政権にも企業にも世襲制度はない。太宗から見れば実に有難い制度のはずだが、その中にあって、何とわが子に社長を譲ろうとあらゆる無理を重ねている人もいる。


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