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松 [雑学]

松の翠(みどり)は大和絵や桃山の障壁画の画題だっただけでなく、「古今」「新古今」で定着した日本の名勝には、かならずといっていいほど松がある。日本三景といわれる天ノ橋立、松島、厳島も、松がなければ成立しない。
 私は戦時中、中国の東北地方にいたが、敗戦の前に朝鮮半島を南下して釜山まできたとき、いままでの大陸風の淡いみどりが、この半島の南端の海岸町で急に濃くなったことに驚いた。
気づいてみると、釜山の西郊に赤松の林があり、この色彩が、溜め息が出るほどに佳かった。
佳いというのは美的な意味でなく、理屈もなにもなしに、松でおおわれた故郷がもう一衣帯水のむこうに横たわっている、という感動だった。
室町期の倭寇どもも、東シナ海をもどってきて、はるか沖合に根拠地の松浦半島の松がほのかに見えはじめたとき、おそらくこういう感動をもったのではないか。
われわれの故郷についてのイメージの底には、かならず松が作る景色があるように思える。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P174

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

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天ノ橋立

 

 

P176
京大の四手井綱英(しでいつなひで)教授が、昭和四十九年11月十八日付の「サンケイ新聞」(大阪)に寄稿されている文章がおもしろいので切り抜いておいた。「マツタケ」の文化という題のものだが、マツタケと生態的に縁の深い赤松の植生について触れておられる。
~中略~
「日本のアカマツ林は決して現在のような広い分布をもっていたものではない」 
 と、いわれる。たしかに松が肥料分のすくない瘦地(やせち)をこのむというのは、常識である。
日本では本来温暖で湿潤な土地だから樹木が密生し、その落葉が山につもって、自然に山の土が肥えてしまう。だから、瘦地を好む松がいたる所にはえているということは以前は決してなかったというのが、右の文章の意味であろう。
 右の文章につづいて、
 恐らくやせ尾根や岩石地など、肥えた土地を好む他の樹木の育ち得ないような所に小群状で暮らしていたものと思う。
ところが平野部の農業が次第に進んで里山の落葉や下木草が集められ、炉で燃やされて木炭としてカリ肥料にされるようになってから、里山は次第にやせてゆき、やせ地に最も強いアカマツ山に変わってゆく。
 とある。
~中略~
 四手井氏の指摘は、明快である。かつて赤松山から農民があつめてきた落葉や枯枝の灰は家々の灰小屋で貯えられ、カリ肥料になるだけでなく、あくぬきなどにも使われた。
農業は、里山に依存していた。
 それが、戦後の化学肥料の使用の増大で状況がかわり、「里山依存の農業文化は失われ」た、という。農業文化が一変したといっていい。
 農民が里山に入らないために赤松の根もとに落葉や枯枝が積もって土の栄養がゆたかになり、これがために瘦地ずきの赤松の樹勢がおとろえ、松にかわって照葉樹がふえはじめたという。
日本の農耕があまり進んでいなかったむかしは、照葉樹林がこのくにを覆っていたから、いまの農村の文化状況によって、里山ももとの照葉樹林にもどるのだと四手井氏はいわれる。赤松のある景色はあかるいが、照葉樹林になると暗くなる。

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

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