最澄と空海 [雑学]
当初、空海と最澄は「一緒にやっていきましょう」と意気投合していた。しかし、まだ温かい交流が続いていた弘仁3年8月19日の書簡のなかで、最澄は「法華一乗の旨、真言と異なることなし」と言っていたが、実はこの時点で既に空海には認めがたい発言だったであろう。
空海にとっては、「真言密教は仏教のひとつではなく、仏教の全体ということになる」からである。
つまり最澄は、天台と真言との間には優劣を認めない「円密一致」(円とは円教=天台の法華一乗の教えのこと)の立場をとっていたので、真言密教といえども、経典類熟読すれば自ずと理解できると考えていたのである。
それに対して空海は、「仏法に顕密二教の別あり」として、真言ひとつを密教とし、天台は顕教(けんぎょう)のひとつとみなしていたのいである。
また、空海は密教を最高としながらも、僧侶としては小乗仏教の戒律も守るべきとする立場であったが、これに対して最澄は、「大乗仏教には、ただ大乗菩薩戒があればよい」とし、小乗の戒律を排除する立場であったという立場の違いもあった。
空海に出会った精神科医: その生き方・死に方に現代を問う
保坂 隆 (著)
大法輪閣 (2017/1/11)
P82
P83
最澄と空海の決別には、むしろ修道観の違いのほうが大きい。まず最澄の密教の修学経緯であるが、天台教学を学ぶために唐に渡った最澄は、修学の帰途たまたま順暁から密教を学ぶ。それは彼本来の目的ではなかったが、桓武天皇はこちらのほうに期待した。
しかし最澄の受法した密教は、空海が長安の恵果阿闍梨から相承した正統密教ではなく、いわば二義的な地方密教(雑密(ぞうみつ))であった。
帰国後、最澄は自分の学んだ密教の不備をさとり、空海から直接に教えを請う。
一刻も早く「伝法灌頂」を望む最澄が、何ヶ月ほどかかるかと空海に質問した時、空海に「あなたの能力をもってしても3年間、学修してください」と答えられて「いま3年は長すぎる」と帰ってしまった。
最澄はせいぜい3ヶ月で十分だと考えていたからである。「最澄の場合3年かかる」というのは最澄の資質・能力ではなく、経を書写しているだけの修学態度をみた空海の偽らざる気持ちであった。
~中略~
そもそも密教の師資相承(ししそうじょう)とは人物対人物を最重要視する。まず師がその人物(弟子の機根)を見極め、面受によって直接伝授するものとされる。しかし最澄のとった行動はそれではなかった。
最澄は、これまでのように書写を主とする修学方法で、密教が理解できると思っていたのである。すなわち、最澄は密教経典の借覧書写、筆受による独学、師と離れたところで弟子の代参による間接的な密教修学方法をとっていたが、空海から見れば、それは密教の修法を根本から否定することにつながるものだった。
人物の有するこころ(志・機根)を見ようとした空海と、人物の有する学識(知識・技術・経典・論書)を見ようとした最澄との違いは、実に決定的である。~中略~
そして、両巨匠は、この別れによってかえって自立性を強固にして、天台宗と真言宗を確実に発展させていくことになるのである。
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