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日本人と鉄 [日本(人)]

 稲作は、夏季が高温多湿でなければおこなわれにくい。とくに河川の流域が、低湿地でなければならず、そういう条件の土地ではすぐ人口が満ちてしまい、余剰の人口は他に敵地をもとめねばならなかった。それには、のちにその名称でよばれる日本列島がいいという情報を得て、民族移動がはじまったとおもわれるのだが、この事態は、古代的状況のなかではコロンブスの新大陸発見よりも重大だったにちがいない。
 かれらが出発するのは南中国の沿海からであったであろう。中国南部は、ばくぜんと越(えつ)とよばれており、黄河流域の漢民族の側からみればいわば南蛮であった。このあたりに、稲のことを、イネとよぶ音があったり、、クメとかクミとかよぶ音があったりして、日本の稲の故郷である痕跡をのこしている。
 江南のイネ民族の移動は、一部は南朝鮮へゆき、一部は北九州で定着したという。あるいはべつのルートがあって、中国北部の漢民族の手で朝鮮へゆき、朝鮮半島を南下して北九州に到着したともいう。
 いずれにしても、イネのモミが、モミだけ飛んできたわけでなく、また、在来の縄文人が、貿易業者のように稲作を輸入したわけでもない。人間そのものがきた。
稲作が可能なだけの人間の群れがこの新たな可能性をもつ島々にやってきて縄文人と混血し、こんにちの日本人ができあがった。
こんにち、われわれが文化概念でとらえている日本人というものの成立は弥生時代の開幕からであるといってよく、その意味では、新大陸にヨーロッパ人が住みついてアメリカ人ができあがった事情と似ている。
 この弥生式稲作農耕とともに、鉄器が当然の付着物のようにして―まだ製鉄はされなかったにせよ―入ってきた。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P227

 

P228
 窪田蔵郎氏の「鉄の考古学」(雄山閣刊)には、べんりな表がある。弥生前期の鉄器の出土状況の表がある。弥生前期の鉄器の出土状況の表である。
 それを漫然とながめていると、出土した県は、八府県である。福岡県(直方市)、熊本県(玉名郡)、鹿児島県(日置郡)が九州で、さすがに九州が日本における弥生式農耕の源流地であることをあらわしている。あとは山口県、兵庫県、大阪府、奈良県で、それ以東の府県からはまだ出土していないらしい。
 それらは、いろんな角度からみて鉄そのものは”国産品”ではなく、舶来品であるらしい。
どこから舶来されたものかはわかっていないが、常識として想像できるのは、中国地域からよりも、北九州との往来のはげしい南朝鮮地域からであろう。
「魏志」(紀元二八〇年代に成立)の「東夷伝」の弁韓辰韓の出てくるくだりに、
~中略~
 という記述がある。
 ここに出てくる民族名は、まず漢は南朝鮮の古代文化の主役である韓人である。も朝鮮半島における古くからの民族で、最後の倭というのがこんにちの日本人の有力な先祖である。
 倭が南朝鮮に居住していることについては、こんにちの歴史研究ではふしぎとされない。倭はどこからきたかはわからないが、北九州と南朝鮮(釜山付近?)を居住区としていたことはどうやら確かで、要するに倭とは稲作を日本列島にもたらした弥生人のことなのであろう。「魏志」では韓と区別している。区別さるべき風俗(結髪・服装)のちがいや、言葉のちがいがあったに相違ない。
 倭も、韓や濊にまじって鉄をとっている。この鉄を北九州に送っていたのであろうか。右の「魏志」に「どの市でも物を買うのに鉄を用い、ちょうど中国での銭のようにして使っている」という記述がいかにもおもしろい。
南朝鮮(弁韓・辰韓)では、だれでも市へ物さえ持って行けば、鉄は買えたし、また物がほしければ鉄を貨幣としてそれを買うことができた。鉄が支配者の独占物だったというだけでなく流通していたことになる。いかに南朝鮮における製鉄がさかんだったかということが、目に見えるようである。

P196
 製鉄は、まぎれもなく朝鮮半島から伝わったと思われる。
 朝鮮半島の製鉄の歴史は、朝鮮北部地方が中国文明を早くから共有したということと、中央アジアからくる非漢民族の金属文明の影響なども考えられるから、黄河流域の漢民族のそれとおなじぐらいに古かったにちがいない。七世紀の新羅による朝鮮全土の統一までの朝鮮文化の高さは、玄界灘をへだてた日本の島々のそれとは、とうてい比較しがたい。
 東アジアの製鉄は、ヨーロッパが古代から鉱石によるものだったのに対し、主として砂鉄によった。
 砂鉄は、花崗岩や石英粗面岩のあるところなら、どこにでもある。問題はそれを熔かす木炭である。
「一に粉鉄、二に木山」(「鉄山(かねやま)秘書」)  というように、古代にくらべて熱効率のいい江戸中期の製鉄法でも、砂鉄から千二百貫の鉄を得るのに四千貫の木炭をつかった。四千貫の木炭といえば、ひと山をまる裸にするまで木を伐らねばならない。
~中略~
 さらに、その社会で鉄が持続して生産されるための要件は、樹木の復元力は、朝鮮や北中国にくらべて、卓越している。
 古代は、中国や朝鮮も冶金時代がはじめるまでは、鬱然たる大森林がゆたかに地をおおっていたかと想像する。

P241
 冶金学の桶谷繁雄氏の「金属と人間の歴史」(講談社刊)によれば、鋼一トンを得るためには、砂鉄一二トン、木炭一四トンが必要だったという。以下、同書の計算を引用させてもらう。
「・・・・・昔の人がやったたたら一回で得られる大塊を二トンとすれば、砂鉄は二四トン、木炭は二八トン必要となる。
木炭二八トンのためには、薪は一〇〇トン近くを切らねばならなかったに相違ない」とある。
すさまじいばかりの森林の浪費であり、くりかえし言うようだが、古代から近世までの製鉄事情としては、東アジアでは森林の復元力がもっとも高い日本列島がいかに適地だったかがわかる。
 (住人注;日立金属関連会社 鳥上木炭銑工場代表取締役)並河氏も、
「山林一町歩で、鉄が一〇トンですね」
 と、いわれた。
~中略~
スサノオの故地だったという辰韓(新羅)の地については、並河氏はそれを訪ねて先年慶州に行ったという。
「慶州の浜側です。そこに砂鉄をとっている所がありまして見学しましたが、ここと品質がかわらないですね」
 ともいわれた。
 この話は、興味ぶかかった。
 慶州に近い迎日湾からの水路が出雲にもっとも近いのである。水野祐氏の説のように、スサノオを奉じて出雲にやってきたのは新羅の製鉄者集団であったとすれば、かれらはこの航路をつたって出雲にきたであろう。 
その慶州の浜の砂鉄は、この鳥上の砂鉄と同質である―チタンやリン、硫黄がすくない―という。かれらが自分の故地と同質の砂鉄をもとめて鳥上山を見つけたのも、あるいは当然だったかもしれない。
 かれらが移動してきた理由は、ひょっとすると韓国(からくに)の採鉄場付近の森林が尽きてしまったからであるかもしれない。「日本書記」では、かの地の曽尸茂利(ソンモリ)にいた素戔嗚尊が、卒然として「此ノ地、吾居ルコトヲ欲セズ」といって、出雲にくるのである。水野氏の説に妄想を加えることをゆるされるとすれば、木がなくなってしまったということが想像できるように思える。


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LargeKzOh

古代日本人とアジア人等の遺骨等から採取した遺伝子分析の比較解析結果によると、われわれ日本人の成り立ちの事情はそう単純ではないそうです。

DNA分析手法の進歩はすさまじく、昔不明であった事が今では随分と理解できるようになり、日本人のルーツは結構複雑だそうです。

by LargeKzOh (2017-11-01 22:51) 

not_so_bad_one

LargeKzOh さん
コメントありがとうございます
by not_so_bad_one (2017-11-02 07:37) 

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