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宗教戦争 [雑学]

 日本には本格的な宗教戦争などなかった。西暦で言えば六世紀にあたる時期の神仏崇拝論争による蘇我・物部の争いも、七世紀の律令国家建設過程で解決している。
 日本のあらゆる仏教宗派は、聖徳太子崇拝では一致できる。
また、第十五代応神天皇を御祭神とする八幡大名神は、仏教を保護する八幡大菩薩でもある。イスラム教を守護するキリスト教の天使など、聞いたことがあるだろうか。
 イスラム教は、新旧聖書とコーランを聖典として崇(あが)めるが、ユダヤ教は新約聖書の存在を認めない。もちろん、ユダヤ教もキリスト教もコーランを認めない。同じ神様を拝んでいるにもかかわらず、である。謹慎憎悪であろうか。
 日本で最大の宗教戦争として石山合戦が挙げられるが、本願寺は端から勅願寺になったことを喜んでいるのである。天皇の権威により、自己の社会的地位が向上したことを喜ぶということは、その威光に服属するということなのである。天皇は政治の争いから超然としていた。

日本人だけが知らない「本当の世界史」
倉山 満 (著)
PHP研究所 (2016/4/3)
P103

日本人だけが知らない「本当の世界史」 なぜ歴史問題は解決しないのか PHP文庫

日本人だけが知らない「本当の世界史」 なぜ歴史問題は解決しないのか PHP文庫

  • 作者: 倉山 満
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2016/04/08
  • メディア: Kindle版

 

DSC_3769 (Small).JPG赤間神宮

P180
 宗教戦争は、相手を皆殺しにするまで終わらない。悪魔を相手とする正義の戦いだからである。悪魔との妥協は正義に反する。だから、戦いがひたすら悲惨になるのだ。
 こうした悲惨さと決別しようと、フーゴー・グロチウスは「戦争と平和の法」を提唱した。人間社会には現実として戦いが存在する。この戦いの悲惨さを軽減しようと、「戦いにも掟(おきて)がある」、それこそが国際法であると主張したのだ。
 グロチウスの考え方はウェストファリア体制の生成と発展に伴い、「文明」として拡大していく。これが近代である。
 しかし、彼らにとっても皮肉にも、有色人種で非キリスト教の日本こそが「近代」「文明」の模範生となった。

P181
 近代のヨーロッパ諸国や日本は、無差別戦争観に立脚している。戦争を人間社会におけるやむをえない事象と捉え、戦争のやり方に関して善悪をつけよう、軍事合理性に反する無意味な殺傷を軽減あるいは根絶しようとするのが、無差別戦争観である。
この考え方においては、戦争そのものに正義も悪もない。また、敵とは利害が異なるものであり、犯罪者ではない。利害が一致すれば昨日の敵も今日の友となりうるのだ。
 一方、アメリカ合衆国は差別戦争観、すなわち正義の戦争があるとする考え方を信じている。この考え方を信じている。
この考え方の幼稚で危険なところは、自分の行う戦争は常に正義で、相手が悪魔になりかねない。悪魔との妥協は許されないし、アメリカ人にとっての戦争とは犯罪者を退治する保安官の構図になるのだ。
 現実の保安官がインデアン狩りで何をしたかは、世界中の誰もが知っている。
自分が正義で敵を悪魔だと思う戦争を、宗教戦争と言う。アメリカは本質的に宗教原理主義の国であるとよく言われる。日本人からすれば、反近代の国なのである。 


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