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平等 [言葉]

 人間はやっかいな社会動物である。
 古代、インド亜大陸の北方にアーリア人(白人)がいた。紀元前十三世紀に亜大陸に侵入し、土着の黒色低鼻の諸民族を征服し、皮膚の白黒によって鉄のような身分性をつくった。
白いバラモンに次ぐのは、おなじくアーリア人のクシャロリア(武士階級)であった。バラモン階級は思索し、クシャトリア階級は王や武人として民をおさめる。
ついでながら釈迦は人間みな平等であるとおう激烈な(!)説教をたてたために結局はその教説はカースト制のインドでうけいれられず、衰弱した。
 アメリカという社会は、多分に法律用語としての「平等」の上に立っている。
 ついでながら、明治の日本は、西洋語の対訳としての新・日本語を無数に造語し、ふるい日本語(とくに仏教語)を過去のものにしたが、無差別をあらわす「平等」という仏教語は、いまも新しい内容を伴って生きている。
日本語の平等は、もともと法律用語でなく仏教語だったことを忘れるべきではない。

アメリカ素描
司馬 遼太郎(著)
新潮社; 改版 (1989/4/25)
P187

DSC_4174 (Small).JPG関門海峡

大自然ほど差別のはげしい世界はありません。人間的な差別と申しますが、大自然の差別ほど激しいものはない。
庭に生えているコケを見てごらんなさい。一本一本、長さも形も全部違う。なぜお前はそんなに短くて、なぜお前はそんなに長いのか、と言ってもしかたがない。それはそうなっているからそうなのだ、としか言えない。
調和がとれているからいいじゃないか、と言う人があるかもしれない。しかし、それは不調和の調和です。つまりそれは、不調和というものを根底においた調和であります。
なんでも平等であればよい、という考えから調和を求めるならば、私は調和は絶対に得られないと思います。
私が現代人を見て非常に残念に思うことは、あまりにも自由、平等ということのみを主張しすぎることです。ですから平等が悪平等になっている。
 いったい自由とは何であるか、平等とは何であるか、ということをもう一度よく考えてみる必要がある。
真の調和は不調和の中に、真の平等は不平等の中に、そして真の自由は不自由の中にこそあるのだということを、大自然の厳しさは私たちに教えてくれましょう。/P>

なぜ、いま禅なのか―「足る」を知れ!
立花 大亀 (著)
里文出版 (2011/3/15)
P74

 人間の平等とは、このように、すべての人びとにその知識や才能を伸ばすための等しい機会を与えることである。
その機会をどれだけ活用して、各人の才能をどこまで向上させ、発揮させてゆくかは、人々それぞれの努力と、持って生まれた天分とによって大きく左右される。
その結果として、人々の才能と実力とに応じた社会的地位の相違ができる。それは当然のことである。
だから、民主主義は人間の平等を重んずるからといって、人々が社会的に全く同じ待遇を受けるのだと思ったら、大きなまちがいである。
すぐれた能力を持つ人、学識経験の豊かな人と、無為無能で、しかも怠惰な人物とが、まったく同じ待遇をされるというようなことでは、正しい世の中でもなんでもない。 それは、いわゆる悪平等以外の何ものでもない。
公正な社会では、徳望の高い人は、世人に推されて重要な位置につき、悪心にそそのかされて国法を破った者は、裁判を受けて処罰される。
むかし、ギリシアの哲学者アリストテレスは、人間の価値に応じて各人にそれぞれふさわしい経済上の報酬と名誉とを分かつことが、正義であると説いた。民主主義的な正しい世の中は、人間のねうちに応じた適正な配分のうえにうちたてられなければならない。

民主主義
文部省 (著)
KADOKAWA (2018/10/24)
P33


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