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シベリア [雑学]

こんにちとなると信じがたいほどのことだが、紀元前三千年から同二千年といった古代には、シベリアは日本よりはるかに文明の度合いが高かった。 日本が縄文時代の闇のなかにあるとき、すでにシベリアでは青銅器文化が興っていた。青銅器文化は紀元前四千年ごろにオリエントで興る。千年ほどを経てシベリアに入り、紀元前千五百年から同千二百年ごろには青銅の冶金(やきん)術がよほど普及していたから、金属冶金についていえば、中国の殷(いん)・周より早かったかもしれない。 すくなくとも中国に影響をあたえうる地理的な、あるいは時間的位置にあったといえる。  オリエントからはるかにつたあった古代シベリアの冶金技術は、この地なりに生産力の高い諸民族を生んだ。ただしその力が広域を支配して一大国家を形成するにいたらなかった。 多くの民族は、冶金術で生産を高め、広域社会をつくるよりも、むしろ原始的な採集生活にどどまって暮らしてゆく方が生きやすかったのかと思われる。

ロシアについて―北方の原形
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋 (1989/6/1)
P47

ロシアについて 北方の原形 (文春文庫)

ロシアについて 北方の原形 (文春文庫)

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2017/04/21
  • メディア: Kindle版

DSC_4188 (Small).JPG関門海峡

P71
シビル汗国という長大な壁が倒れてはじめてロシア人の現実の地理的世界としてシベリアが湧出(ゆうしゅつ)したといっていい。
 しかし、その後の冒険的なロシア人の目で見れば、シベリアはなお黒貂とその巣のかたちをしていた。
 冒険的なコザックを中心とする任意の征服者たちが、あらそってシベリア征服に乗り出し、城塞をつくり、原住民を抑圧し、黒貂をとりあげ、それを買うべく商人たちが奥地に入った。さらにはモスクワの方針によって開拓農民も進出した。

P72
 ロシアの勢力がシベリアの東端に達するのは、イェルマークがイルティシュ川で水死してからわずか六十三年後の一六四八年のことである。

P185
シベリアには、森林(タイガ)や河川で原始的な狩猟採集の生活をしているひとびとだけではなく、大小の遊牧民族も住んでいた。
その最大のものが、バイカル湖畔に遊牧するブリヤート・モンゴル人だった.低地モンゴル人といってもいい。  だからモンゴル高原のモンゴル人とは、別に考える必要がある。

ロシアについて 北方の原形 (文春文庫)

ロシアについて 北方の原形 (文春文庫)

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2017/04/21
  • メディア: Kindle版


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