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ヤルタ協定 [国際社会]

 当時、英国を代表していたチャーチルは、戦後、ソ連の力が膨張するだろうと見、十九世紀風の力の均衡という一点に焦点をあわせた思考法から諸問題を考えていたが、米国を代表するローズヴェルトの思考法はそうではなかった。
チャーチルのように乾いておらず、多分に理想主義的夢をもっていた。ローズヴェルトは彼の考えている戦後世界の平和維持の国家機構に期待をもちすぎ、ソ連について緊張感をチャーチルのように持たなかった。さらには、中国を代表する蒋介石はこの会議によばれなかった。
 日本はへとへとになりながらもまだ戦っていた。ローズヴェルトはソ連に、日本の武力圏を北方から攻めさせようとし(実情は、その必要はなく、満州にいる関東軍は事実上もぬけの空になろうとしていた)、対日戦への参加をおとめた。スターリンは、対日戦をやる代償として、いくつかの条件をもちだし、承諾を得た。
 いわゆるヤルタ協定(一九四五年二月二一日、ヤルタで署名)である。

ロシアについて―北方の原形
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋 (1989/6/1)
P242

DSC_4209 (Small).JPG手向山公園

P243
 「ヤルタ協定」
 は、全三項から成っている。すべて日本および中国に関係する内容である。
 日本国外務省条約局「主要条約集」の「ヤルタ協定」の項の翻訳(仮訳とされている)によって見ると、協定の参加国の集団呼称として、
 「三大国」(ザ スリー グレート パワーズ)」
 ということばがつかわれている。こういう表現も、詩劇的である。協定は三つの条項からなっている。
 その第一項こそ、最重要の内容である。
 外蒙古(蒙古人民共和国)の現状が維持されること。
「現状」
 つまりは、ソ連傘下でありつづけること。そういう意味である。言い添えると、むかしのように、中国の影響力はそこにはおよばない、ということである。
スターリンが、対日参戦を承諾するにあたって、この第一項を、他の二つのパワーに再認識させたのである。
 さて、第三項である。
 千島列島が、ソヴィエト連邦に引き渡されること。
 これによって、いわゆる日本の「北方領土」はうしなわれた。
 もっとも協定でいう「千島列島」とはどの島までをさすのかという地理的規定は話あわれていない。だからソ連が解釈しているままに島という島がごっそり対象にされたかのようであり、事実、ソ連はすべての島をとりあげ、日本側が、そこはいわゆる千島でなく固有領土だとする四つの島までとりあげた。
「そのうちの四つの島は昔から私のものだ」
 と事実をのべるべき日本は、この坐にいない。当時、日本はなお交戦をつづえけている。
やがて敗者になる。それを見越して三人の勝利者の分け前談義なのである。情け容赦があろうはずがない。
 しかし、いずれにしても、広大なモンゴル高原と、小さな千島列島とが、それぞれ一条項を立て、等価値があるかのように相並んで記され、アジアにおける戦後領域がきめられたのである。このことは、もし千島列島(たとえその一部であっても)もソ連が日本に返還するとしれば、ヤルタ協定が崩れ、モンゴル高原もまた、中国側から要求されればその「現状が維持される」ことを、法理的には、やめざるをえなくなる。


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