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長養 [言葉]

 この「長養」ということばは、禅特有のことばです。それは、わが大徳寺の開山・大燈国師が、鎌倉の建長寺において悟りを開かれたときに、その師大応国師よりいただいたことばの中に見いだされるものです。
 そのとき大燈国師は弱冠二十六才でありました。「雲門の関」という難題中の難題である一つの公案をみごとに打開した大燈国師は、その喜びを次のような詩に託して大応国師に示しました。
「私は、あなたからいただいた「雲門の関」という一つの課題に対して、ついに今朝、かような解答を得ることができました。こんなにうれしいことはございません。事ここに至っては、もうこれ以上修業を積む必要はありませんし、またあなたのもとにいる必要もございません。つきましては、私はこれをお土産として、ふるさとへ帰りとう存じます。
ですから、どうか、もしも私の解釈に悪いところがあれば、それをご指摘いただき、もしもそれでよいというのであれば、その証明を賜りたいと思います」
 すると、それを受けとった大応国師は、「わしが与えた難問をそこまで解決するとは、もうお前はわし同然である。わしはお前であり、お前はわしだ」と言って弟子の進境をともに喜んだあと、次のようにつけ加えた。
「しかしながら、そのことを人に示すのは、二十年間の長養ののちでなければならない。すなわち、お前は、きょうより二十年たたなければ、人に、わしから印可を得たこと、つまり法を伝えられたことを告げてはならぬ」
 これが、長養ということばのよってきたるところです。
~中略~
人は、たとえ悟れても、また俗事に追い回されているうちに、その悟りがひょっとして薄れやせんか、という憂えがあるのです。きょう悟ったからといって、あすから人格も風格も全部変わってしまうかといえば、断じてそうではない。
 むしろ、うっかり「おれは悟ったんだ」と思い込んでしまうことで、大きな勘違いをおかすことになる。悟りという狭い畑の中に閉じこもって、普通の凡人生活になじめない人間ができてしまう危険性があるのです。
 真の悟りの生活とは何かということは、これはなかなか口で説明できるものではありません。長い時間をかけて、自己というものを眺め尽くす必要があるのです。それが長養ということの意味です。

なぜ、いま禅なのか―「足る」を知れ!
立花 大亀 (著)
里文出版 (2011/3/15)
P117

 

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