SSブログ

重信川 [雑学]

 豊臣時代までは、伊予第一の川といううことで、伊予川とよばれていた。重信というのは、改修者の名である。日本の河川で人名がついているのは、この川だけではないか。
 秀吉の子飼いの大名には土木家が多かった。城普請の藤堂高虎、石畳と灌漑土木の加藤清正が有名だが、加藤嘉明(よしあき)や福島正信さえ、凡庸でなかった。~中略~
 当時、土木は国土経営の核心のようなもので、同時に土木感覚は武略の感覚とも表裏していた。秀吉政権における武断派とよばれたかれらが、関ヶ原まで家康方につき(というより家康に操作され)、文吏派であった石田三成と戦ってこれを滅ぼしたことは、周知のことである。
 関ヶ原以前、伊予で六万石の身代でしかなかった加藤嘉明(後年、会津に転封させられる)は二十万石に加増され、関ヶ原から三年後に家康に乞い、道後平野に新城と新城下町を築くことを許可される。今の松山城(勝山城)と松山旧市街がそれだが、この加藤嘉明以前の松山付近というのは一望の田畑と葦(あし)の野で、めだつほどの集落もなかった。
~中略~
 松山城とその城下町をつくった加藤嘉明も、似たようなことをした。旧城の松前(正木)城下におたたという魚を行商する女がいて、陽気で頭がよく、唄がうまかった。
 「おたたよ、一つたのむ」
 と、どうやら嘉明自身が、この行商の女に地元をにぎわすことを頼んだらしい。
この時代には奴隷労働がなく、賃銀(米で支払う)労働であった。かつて秀吉がやった大坂城造営も、賃金労働であった。それでも、農事以外の労役農民はきらったから、施工主としては地元を普請にむかって祭気分で沸かさねばならなかった。奈良・平安初期なら行基や空海のような大衆に人気のある僧がそのことをやったが、戦国・豊臣期をへた社会は、その種の神秘人格を昔ほどには信じなくなっていた。
 その代わりとして、おたたのような人気女が登場する。 ~中略~
 嘉明の夫人をお萬といった。お萬はみずから炊出しをし、おたたらの一行に握飯をくばったという。
 この間、重信川の名のもとになった足立重信という普請奉行が、みごとな普請指揮をした。
 かれは山上の城に多数の瓦を運ぶのに、運搬のひとびとがいちいち一人ずつ山坂を登るという無駄をはぶき、麓から山上まで近郷の農民を一列にして長大な人垣をつくらせ、手から手へ瓦を渡させて一日のうちに所要の瓦のすべてを片づけ、嘉明をおどろかせた。
 それまで伊予川はしばしば氾濫した。重信は嘉明から命ぜられて堤をきずき、水の勢いを殺いだり、流れを変えたりして、みごとに治水した。
 重信は、通称を半助、のち半右衛門とあらためた。地元が自然に名づけるとすれば半助川とでもよんだろうが、わざわざ諱(いみな)を河川の名にしたというのは、嘉明自身の命によるものといっていい。領内の重要な河川に家臣の名をつけるなど、よほどのことであったろうと思われる。

街道をゆく (14)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1985/5/1)
 P26

DSC_0805 (Small).JPG


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント