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伊達正宗 [雑学]

 創業の政宗(一五六七~一六三六)は遅くうまれすぎた人といっていい。かれが奥州統一をすべく活動しはじめたときに中央で秀吉の政権ができ、それが次第に確立し、秀吉の小田原攻めのときにその傘下に入らざるをえなかった。
 東北地方がもし戦国期に統一していれば(むろん政宗意外の存在によってでもかまわないが)さらにそれによって東北固有の共通文化が熟成し、独自の広域経済の原型が十六世紀ごろにできていれば、江戸、明治期の東北はよほどちがったものになっていたにちがいない。
 ともかくも正宗の生涯は、東北が未成熟段階のまま―多分に中世的な経済段階に置かれたまま―中央政権に屈服し、それに隷属せざるをえなかったといううらみをのこしている。
政宗は東北へ直接ヨーロッパ文明を導入(支倉常長のローマへの派遣)しようとさえしたが、そのこともつかのまの夢になり、江戸期には多数の大小名の領地に細分され、経済的後進性のまま明治期に入った。
 政宗の第二子忠宗が仙台伊達家を嗣(つ)ぐ。第一子である秀宗が仙台を出てはるかに宇和島まできて初代藩主になる。~中略~
 政宗は多分に政略ながらも秀吉に対し従順のかぎりをつくした。秀宗(幼名・兵五郎)が三歳の文禄二年(一五九三)にも入洛し、聚楽第で秀吉に謁したとき、奥州から連れてきた秀宗をも拝謁させた。この時代の慣習ではその幼児が正式に主人に拝謁した場合、その家の世継ぎにあるのである。しかも政宗は、
「お手元にてお育てくださいませんか」
 と、たのんだ。その意味の一つは人質ということであり、べつの意味として、ゆくゆくの秀吉の子飼いの大名にしてほしい、ということである。
 秀吉のよろこびはひととおりではなかった。~中略~
 秀吉はこの兵五郎に自分の秀の一字をあたえて秀宗(秀弘という説もある)と名乗らせ、猶子(ゆうし)とした。ナホ(猶)子ノゴトシ、という意味で、養子よりやや軽いが、尋常なあつかいではない。
 以後、秀宗は竣工早々の伏見城で養われ、のち大坂城で育つ。
 秀吉の子秀頼よりは二つ上で、近習―この場合は遊び相手―として大きくなった。
~中略~
 慶長五年(一六〇〇)関ヶ原で徳川の天下が成立する前後から、政宗はそのほうへ参じたが、豊臣家へ行ってしまっている少年の秀宗の始末にこまった。
 結局、正夫人が生んだ次男虎菊丸(のちに忠宗)を家康と秀忠に拝謁させたのである。秀宗がいつ嗣子からおろされたかよくわからないが、虎菊丸が元服するのは、慶長十六年十二月、異例なことに二代将軍秀忠の前においてであった。仙台伊達家が時代の変遷のなかで生き残るには、ここまでの配慮が必要だった。
 当然、次男虎菊丸に対し将軍秀忠が名付け人になり、自分の忠の字をとって忠宗とつけてやるのである。将軍が名付け人になった以上、伊達家の相続人は忠宗に決まった。
 秀忠は、あわれなものであった。かれはすでに大坂を去り、江戸に居住していたが、ともかくも豊臣秀吉の猶子だったということは、徳川氏の治下ではまずいことだった。
 慶長十九年冬、徳川氏は諸大名を動員して、豊臣秀頼を攻めた。大坂冬ノ陣である。その直後、徳川氏は、
「伊達秀宗には、別家をたてさせ、伊予宇和島(当時、板島とよばれていた)十万石をやろう」
ということで、仙台伊達家と切り離した。

街道をゆく (14)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1985/5/1)
 P97

DSC_4936 (Small).JPG企救自然歩道


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