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痛みとは [医学]

 鐘楼の鐘は、下からロープを引くとなる。弱く引くと小さな鐘の音が、強く引くと大きな鐘の音がなる。ロープを切ると、そのロープを引いても鐘はならない。
 痛みは、この鐘楼の鐘の音のように考えられ、そして痛みに対するこのような考え方が根強く定着してから久しい。すなわち、ロープを引くことが痛み刺激、ロープが神経、鐘が痛みの中枢、鐘の音色が痛みの性質、鐘の音の大きさが痛みの強さである。
 しかしながら、痛みの現実は、ロープに手をふれなくとも大きな鐘の音がなりひびいたり、ロープをそっと引いても大きな鐘の音となったり、ロープを切っても鐘だけがなりつづけることも、決してまれなことではない。
むしろ、このような痛みに、多くの人たちは悩み苦しんでいる。その意味で、3百年以上の間、痛みのすべてを鐘楼の鐘として定着させてきたこの考え方は誤りといえる。

痛みとはなにか―人間性とのかかわりを探る
柳田 尚 (著)
講談社 (1988/09)
まえがき

 

DSC_4497 (Small).JPG薦神社

P16
 痛みは、痛む本人が、「痛い」と言葉や動作で表現することにより、はじめて、他人はその人の痛みに気がついたり、注目したりするものである。しかし、その人が、どのように痛いのか、どの程度痛いのかは、本人以外の他人にはわからない。
 痛みは、あくまでも痛む本人の主観的感覚の訴えであるから、いかなる近代科学の枠を駆使したとしても、数値や画像などによって客観化することはできない。
 私たち人間は痛くないのに「痛い」と嘘をつくことも可能である。我慢できるのに「我慢が出来ない痛さ」と表現することも可能である。顔をしかめなくともよいのに「顔をしかめる」こともきわめて容易なことである。
 しかし、このような人間の嘘に対して、「あなたの訴える痛みは嘘である」とか、「あなたの表現はオーバーである」と反論し得る確実な科学的証拠は存在しない。このような意味において、痛みというのは、いいたい放題の訴えが可能である。

P64
患者が「痛い」と医師に訴えた場合、種々の検査を次々と行い、その結果、「どこも異常なし」と言われた経験のある人は多いであろう。目の前の患者が「痛い」と訴えているのに、「異常なし」という言葉は、患者に対する答えとしては全く成立していない。
~中略~
 すでに、本書の冒頭にも述べたように、
 一、痛みというのは、あくまでも本人の主観的感覚の表現であること
 二、痛み自体は、いかなる諸検査によっても、決して客観化し得ないこと
 痛みに対するこの基本が、現在の医療のなかで、まだ定着していないことを強く指摘せざるを得ない。
 患者と医師の会話のなかで、「あなたの痛みは、多分、気のせいでしょう」などと、言外に、「痛くないのに、痛いといっている」とういう意味が込められている場合も、よく耳にする。
痛みは、そもそも、「気分」の問題であって、レントゲン学的な異常、あるいは血液検査の異常という問題でない。

 いろんな種類の刺激にどれくらい反応するかは、先天的な差異があり、その違いは、わたしたちがどのように世界をとらえ、知覚するかということに大いにかかわっています。~中略~
 しかし逆に、もし刺激に敏感すぎると、その刺激を避けんがために環境との相互作用を避けるようになり、人生の素朴な喜びさえ見逃してしまうことにもなりかねません。

奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき
ジル・ボルト テイラー (著), Jill Bolte Taylor (原著), 竹内 薫 (翻訳)
新潮社 (2012/3/28)
P313


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