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意思決定 [ものの見方、考え方]

 自分は人生をこう生きていると頭で考えていても、それは実際の自分の生きざまではない。自分はこんなふうに決断をくだしていると頭で考えていても、それは実際の自分の流儀ではない。
ある日、ふと気づいたら操車場にいて、突進してくるトロッコにだれかがひき殺されそうになっているとしても、きみがどう対応するかは理性的な計算などとはいっさい無縁だろう。このような状況では感情や本能が支配権を握る。
感情や本能は、そこまで反射的でない決断をくだす場合にも指針として働き、自分ではとても慎重に理性的に決断しているつもりのとき―夕食はなにがいいかな? どこに住もうかな? だれと結婚すべきかな?―でさえ影響をおよぼす。

ハーバードの人生が変わる東洋哲学──悩めるエリートを熱狂させた超人気講義
マイケル・ピュエット (著), クリスティーン・グロス=ロー (著), 熊谷淳子 (翻訳)
早川書房 (2016/4/22)
P27

 

DSC_5039 (Small).JPG平尾台

P79
 わたしたちは将来の計画を立てるとき、未来は予測できると思い込みがちだ。もちろん、人生は一八〇度変わることがあるとか、たしかなものなどなにもないという意見にも口先でなら賛同する。
それでもなお、ものごとが予期したとおりにならないと、不意をつかれて驚くことも多い。というのも、わたしたちは人生を送るにあたって、世界は条理あるもので、そこには当てにできる安定した要素がなにかしらあると考えがちで、その思い込みが決断に影響をおよぼすからだ。

P84
 ほとんど自覚はないものの、今日でもわたしたちの決断は、世界を条理あるものと見るか転変するものと見るかによって方向づけられている。大多数の人は、墨子のように世界に条理があると見ている。
ものごとがいつも計画どおりにいくわけではないことはよくわかっていても、同時に、世界に大きな仕組みによって動いていると思うきらいがある。
しっかり勉強すれば学校でよい成績がとれる。よい教育を受ければやりがいのある仕事が見つかる。最愛の人と結婚すれば、それからずっと幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたしとなる。
 ふつうわたしたちは、二つのモデルらしきものを頼りに決断をくだす。どちらのモデルも世界にはある程度の安定性があるという観念に根ざしている。
 一つは「合理的選択」モデルだ。わたしたちは論理的に決断する能力を備えた理性的な生きものだ、。膨大な調査をし、よい点と悪い点のリストをつくり、リスクと効果を天秤にかけ、最大の努力で最善の結果をあげようとする。どの講義を受講するか、大学院に進むかどうか、離れた土地での就職の話を受けるかどうかをじっくり考える。
 そうでなければ、もう一つの「本能的な勘」モデルを選び、自分がなにを「正しい」と感じるかという直感をもとに決断をくだす。どこで外食をするか、つぎの休みの旅行をどこにするか、リビング用にどのソファを買うか決断する。
 最終的に、大多数の人はこの二つをいろいろ組み合わせて使っている。下調べはするものの、最終的には勘に頼るような場合もある。
 世界が転変するという観念をつらぬいた孟子なら、どちらの意思決定モデルも心得ちがいと見なしただろう。計算だけで決められると確信していると、自分はたしかに理性的に決断していると思うだろうが、その決断は無意識の要素に狂わされている。これはなにも目新しい話ではない。山ほどの意思決定の研究が、感情はたびたび理性的な思考を乗っ取ると結論づけている。
 しかし、だからといって直観に頼るべきだという意味ではけっしてない。直観は未熟な、あるいは利己的でさえある願望のあらわれにすぎない場合も多く、本当の意味での正しいおこないという感覚にはもとづいていない。
 じつは第三のやり方がある。常に感情の感度を研ぎ澄まし、感情と理性が協調して働くようにすれば、将来を閉ざしてしまう決断ではなく、前途を切りひらく決断をくだすことができる。
わたしたちは不変の世界に生きているのではなく、だからこそ、なんとしても避けるべきなのは感情を排除することだ。感情のおかげで、わたしたちは状況のあらゆる機微をとらえることができ、どの出発点からでも無事に事態を乗り切ることができる。

P98
とめどなく移ろいゆく世界のなかで、まず全容を見きわめてから決断をくだすには、自分の感情を鍛練しなければならない。さまざまな方向へ向かいうる複雑な自己と複雑な世界と複雑な道筋という観点から決断というものを考える意味を学ぶ必要がある。

P94
 墨子のように、知性の機能と感性の機能とをはっきり区別することや、理性と感情をできるだけ切り分けることを信条とした思想家もいるが、中国語では「マインド=理性」と「ハート=感情」を「心」という同一のことばで表現する。心は感情の中枢であり、同時に理性の中核でもある。熟慮したり、思案したり、黙考したり、愛や喜びや憎しみを感じたりできる。
偉大な人物になる人とそうでない人を隔てるのは、やみくもに感性のみや知性のみに従うのではなく、「理性+感情」である心に従う能力だと孟子は説いた。心を修養するすることで、賢明な決断をくだす能力が育つ。
~中略~
 感性の導きに従順だと、みさかいのない愚かな決断をくだす。空腹でもないのに食べすぎてしまうようなあまり重要でない決断でも、パートナーに冷たくされたと感じて激しくなじってしまうようなあまり重要でない決断でも、感性はたびたびわたしたちを誤った方向へ導き、その場その場で愚かな反応をさせる。

P100
孟子が「権道(けんどう)」と呼んだ臨機応変の判断とは、それぞれの状況をこまかい襞まですべて慎重に考慮しつつ、本能的に道義にかなった正しい判断をくだせるということだ。心の鍛練は、判断力を研ぎ澄ますことを意味する。大局を見すえ、人のふるまいの裏に本当はなにがあるのか理解する。不安や恐れや喜びなどの異なる感情が人の異なる面を引き出すこと、にんげんはかたくなだと思ってしまいがちだがそうではないことを心にとめておく。
正しい行動に対する感覚は、古井戸に落ちた子どもを助けずにはいられない気持ちにさせる本能から、もっと複雑で発達したものになる。危機にさらされている子どもになにをしてやるべきか意識して自問する必要がないように、心をはぐくんでいれば、人生における日々の遭遇にもまれながらも、どのように進んでいくか自問する必要はなくなる。

P102
世界に条理があるという観念を頼りに理性的に人生の大きな決断をくだす場合、わたしたちは、わかりやすい状況、わかりやすい可能性、揺るぎない自己、常に変わらない感情、常に変わらない世界を前提としている。ところが、そもそもこれは前提でもなんでもない。
具体的で明確な計画を立てようとすることで、反対に抽象的になっている。というのも、きみは抽象的な「自分」のために計画を立てているからだ。
きみの想像する将来の自分は、きみが思う今の自分をもとにしているが、きみも世界も環境も変化することを忘れている。わずらわしい現実の複雑さから自分を切り離しているが、その複雑さは自分が人間として成長するための基盤となる。きみは人として成長する可能性を排除している。将来きみがなるだろう人物の利益ではなく、今きみがたまたまなっている人物の利益を最優先し、それに合わせて人として成長を限定しているからだ。
 かわりに、世界が不安定だとたえず意識しつづければ、変化しつづける複雑な世界と変容しつづける複雑な自分という認識にもとづいて、すべての決断や反応を考えられるようになる。心をしっかりひらく鍛練を積み、自分をつくっている複雑な要素をすべて考慮に入れられるようになる。最善の結果が得られるのは、長期的な道筋という観点からものごとを考えた時だ。最も広がりのある決断は、ものが育つ土壌をつくることから生まれる。


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