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善光寺聖 [雑学]

 この鎌倉期においては、東は相模あたりから、北陸道、中山道、東海道、畿内はいうまでもなく、山陽道から九州にかけてまで、野にも山にも念仏が満ちていた。
 社会科の教科書ふうにいえば念仏門は法然にはじまって親鸞がこれを承(う)け、別派として一遍が存在する。やがて室町に入って親鸞の子孫の蓮如が、念仏の組織的な大問屋として大本願寺教団をつくりあげて、各地に一向一揆をおこし、本願寺蓮如の時に織田信長と対決するというふうになるが、実際には法然以前に古流(こりゅう)ともいうべき念仏集団が各地に多種類存在した。
それらが法然の出現を待って教学を与えられ、すこしずつ組織されるのである。たとえば高野聖(こうやひじり)を中心とする高野念仏もあれば、紀州の熊野にあつまっていた熊野聖たちの熊野念仏もあった。さらには信濃の善光寺を中心にあつまっていた善光寺聖という集団があり、善光寺念仏といわれていた。念仏の本尊はいうまでもなく阿弥陀如来である。
善光寺の本尊はこの古刹(こさつ)としてはまことにめずらしく阿弥陀如来で、日本最古のものといっていい。中世、阿弥陀信仰がさかんになってから信濃の善光寺という寺が、天下に喧伝されたかと思える。喧伝されるについては、善光寺の僧が才覚を働かせたのではなく、善光寺にいわば巣食っていた善光寺聖たちが、さまざまな伝説を創作しては諸国に触(ふ)れあるいたかと思われる。

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)
P267


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