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別所温泉 [雑学]

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 この別所温泉を持つ野は、塩田平(しおだだいら)とよばれる。信州らしく文字どおり高燥の地で、降雨量はすくなく、標高は温泉あたりで六五〇メートルだという。
~中略~
 常楽寺は、丘陵の中腹の台上にある。台上までは、石段を登る。のぼりつめると、本坊がある。きれいなわらぶきの屋根をかぶっていた。
 寺域は緑につつまれ、あたり一面に蝉しぐれが降りつづけて、もうそれだけで十分な感じがした。  この寺は、本坊だけである。本坊は坊さんの住まいだから、参詣者は来ない。参詣者はこの寺が持っている観音堂(北向観音)のほうへゆく。観音堂は、本坊からすこし離れている。

P278
 この常楽寺に付属する「北向観音」の観音堂伝説では、この円仁が登場する。
 天長二(八二五)年に、この常楽寺の丘陵の一角で、毎夜、光明が射し、地鳴りをともなった。 朝廷がおどろき、天台座主円仁を派遣した(実際には、円仁が天台座主になるのはそれから二十九年後)。
円仁が現地で修法(すほう)を営むうち、空中から声があって、自分は観音である、わが像を刻み北向きに安置せよ、といった。
円仁はこの像を刻み、いわれるとおりに北向きにし、観音堂にまつった。
 おそらくこの伝説は、観音堂にあつまっていた聖たちが創作したのであろう。
「そういうありがたい観音さまだ」
 と、ひとびとに触れまわったにちがいない。別所温泉の湯元の一つは、古い時代、大師ノ湯とよばれた。この大師は空海・弘法大師ではなく、円仁・慈覚大師であるらしい。~中略~
「善光寺だけお詣りしていてはいけない。北向観音に詣らなければ片詣りになる」
 と、善光寺とワン・セットにして売り出すということを考えたのも、観音堂の聖たちに相違ない。
かれらが湯聖をも兼ね、ひとびとに観音堂の参籠をさせて仏果を得させる一方、湯治(とうじ)をさせて神経痛などを癒させるということにしていたのかと思える。
そうでなければ別所という地名ができるわけがないと思うが、どうであろう。

P281
絵馬に葛飾北斎の真筆らしい馬の図がある。また吉原の三浦屋の店頭をえがいた浮世絵の絵馬もある。~中略~
北斎の絵馬も三浦屋の絵馬も、当人もしくはたれかが北向観音に寄進したもので、これだけの絵馬が寄進されるというおとからみても、北向観音の江戸期における盛大さがほぼ察せられる。
 このおなじ丘陵に、安楽寺もある。
 境内は禅寺らしく清雅で、檜皮(ひわだ)ぶきの本堂がとくに美しい。本堂の横手から裏山への道をのぼると、有名な八角の屋根をもつ塔がある。
 中国には、磚(せん)(れんが)積みや石造の八角の屋根の塔が多いが、鎌倉末か室町初期に中国へ渡った僧がそのイメージを持ちかえって、木造でつくったものだろうが、由来が十分にはわかっていない。
鎌倉・室町期における禅宗の流行は、建物その他僧院の生活様式にいたるまで、モダニズムとして中国風が好まれた。この時代から戦国までの禅と念仏は、こんにちのわれわれの文化の原型を決定したものといえるし、いまなおわれわれのさまざまな意識の底に息づいているように思える。

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)

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