SSブログ

島国のくせに内陸国家 [日本(人)]

  私は古代の漁撈集団というのは、東アジアの沿岸に貼りつき、東北アジアの海を共通の宇(いえ)として暮らし、似たようなクリヌキの小舟と似たような漁法をもち、また以下のことは、やや空想の域を出ないが、神話や語彙(ごい)において共通点が多かったかと思える。
 日本での古代漁労集団は安曇(あづみ)族とよばれるものだが、この集団が、遼東半島から朝鮮半島の黄海沿岸に住んでいた同業の連中とまったく無縁だったとは考えられない。
 中国では、漁民は徹底して軽んじられてきた。中国体制を参考にした律令日本の立国もまた農をもって基本としたため漁労民は大いに軽んじられた。その意味では明治以前の日本は小さな島国のくせに内陸国家であったといってよく、このため外洋への航海と船舶は容易に発達しなかった。
 日本で外洋船が出現するのは、飛鳥・奈良朝の遣隋・唐使船の派遣からである。当時の日本人たちにとって船と言えば小さな漁舟(いさりぶね)のことで、外洋船など、どう建造してしいのかわからなかったにちがいない。
 妙なことに、朝鮮半島では比較的早くから外洋船が発達していた。
 たとえば北方の高句麗(北朝鮮と南満州の一部)などは、日本海を縦断できる外洋船を古くから持っていたということからみて、一種海洋国家の要素をもっていてのではないかと思える。このことはこの地に高句麗という民族国家ができる以前、漢の植民地で、楽浪郡などが置かれ、その文化や技術を高句麗が継承できたというせいではないかと思えるが、想像でしかない(ただしこんにちの朝鮮の歴史家のあいだでは漢の楽浪郡の影響を考えることは一般によろこばれないらしい。
しかし文化というものは他文化の影響で変化し発展するものであるということを考えると、農業と牧畜の国家だった高句麗が、外洋船の建造能力をもっていたという意外さは、他からの影響として考えるほうがよりきらびやかであるし、また常識的ではないかと思ったりする)。
 南朝鮮の黄海沿岸の上代国家であった百済(~六六〇)も、外洋船をもっていた。
 百済はどういうわけか、華北の北朝にはつよい関心を示さず、揚子江以南で興亡した六朝(りくちょう)(二二二~五八九)の遊び性のつよい貴族文化が好きで、わざわざ遠い揚子江河口まで船をやっては、朝貢(ちょうこう)貿易をつづけていたために、黄海から東シナ海を突ききってゆく外洋船が必要だったのである。こんにち百済船と六朝船とを技術的に比較する材料がないが、両地帯の大船建造法は似ていたのではないか。
 七世紀後半に百済が新羅のためにほろぼされ、その遺臣や遺民が大量に日本にきて、日本の上代文化に重大な影響をあたえた。
 日本の外洋船の建造技術にも、大きな影響をあたえた。竜骨などはむろんなく、船底も扁平で、構造的には箱をつくるように戸板のような平面をべたべたと張りつけただけのものであった。つよい横波などを連続的にうけるとばらばらになったりして、構造上、東アジア各地の大船のレベルからみると、もっとも脆弱(ぜいじゃく)だったのではないかと思える。
 同時代の新羅の外洋船のほうが、まだましだった。新羅はいわゆる三韓のうちではもっとも後進国だったが、百済をほろぼし、高句麗の故地をあわせ、唐の勢力を追っぱらって朝鮮半島における最初の統一国家をつくった。当然、高句麗の故地をあわせ吸収したに相違なく、遣唐使船時代の記録をみると、新羅船がいかにも堅牢で安全そうで、日本側からみればひどくうらやましいといった感じが匂ってくるようである。
~中略~
 遣唐使は寛平六(八九四)年に廃止されたが、以後、日本における外洋航海も途絶え、大船建造の技術も衰退した。
 平安末期、平清盛が航海貿易策をとりながらも、それを実施する大船についてはわざわざ宗から操船者付きで買い入れるざるをえなかった。いかに日本が海洋国家としての実がなかったかということになるであろう。
清盛が唐から船員付きで購入したのが「高倉院御幸記」にでてくる唐船である。

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)
P181

 

DSC_6255 (Small).JPG

奈良県吉野郡吉野町吉野山1024


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント