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高野聖 [雑学]

P209
 高野聖は、数人が群れて回国(かいこく)する。「洛中洛外図」などを見ても、旅をする聖たちが、どこへ行くのか杖を持ち、背を曲げて歩き進んでいる。かれらは聖であるという証拠として亀が甲羅(こうら)を背負うようにかならず笈(おい)を負う。笈の中には経文や弘法大師の像などが入っていて、村々で逗留しては加持祈祷(かじきとう)したりして米銭を得る。
~中略~
 安土桃山時代から徳川初期まで在世したかとおもわれる氏名不詳の筆者が書いた「当代記」全十巻は当時の世相をうかがうのに便利な本だが、そこにも高野聖のことが出ている。以下、多少漢文まじりを訓(よ)みくだしにあらためて写すと、
 昔より 高野山聖 諸国へ下る時 我と宿取ることなし。
 路巷にて 宿かせ〱と呼ばはる。心ある人は上下によらず宿をかす。若し宿なければそのまま路頭に明かす。
 かれらは宿を借ろうと呼ばわるために、聖の異称として「夜道怪(やどうかい)」などという文字が当てられたのは、「高野聖にやど貸すな 娘とられて恥かくな」などということばが流布したことと無縁ではなかろうし、聖たちも悪い仲間の悪行をひっかぶって、まことに詮(せん)もないことであったにちがいない。
 高野聖は僧形(そうぎょう)をしている。しかし正規の僧ではない。

P213
 高野山を権威と信仰のよりどころにした聖が、高野聖である。かれらは時代の流行の念仏を護持するとともに、弘法大師の御利益(ごりやく)をもかついだ。
空海には、阿弥陀如来に頼みまいらせて南無阿弥陀仏をとなえるという思想はまったくない。高野聖が、勝手に念仏と空海をくっつけ、念仏の他力本願と空海の即身成仏という理論的には矛盾したものを堂々と信仰化してしまって、諸国を歩いたのである。
「病気なおしにはお大師さんの加持祈祷を。死者に対して阿弥陀如来の本願を慕う念仏を」というのが、室町期には夜道怪などとさげすまれるほどにしたたかだった高野聖の両刀使いであった。
 江戸末期まで、高野山にあっては、
 学侶方(がくりょがた)
 行人方(ぎょうにんがた)
 聖方
 という三つの機能があり、それぞれ仲が悪かった。学侶方は奈良・平安期の官僧およびその候補者といってよく、これに対し行人は叡山などの僧兵にあたるであろう。本来、高野山の雑役夫で便宜上僧形(そうぎょう)だった者が、しだいに一山(いっさん)で勢力を得、学侶と対抗するまでになった。かれら行人はおなじ私度僧ながら聖とは異なり、高野山に常住して旅には出ない。
 これに対し、高野聖は、回国が専門である。
 こういう自然に成立した制度は、空海自身、思いもよらぬことであった。かれが山を開き、平安中期ごろから栄えはじめるにつれて出来あがってきたもので、空海の末弟と信じている学侶だけで高野山が成立していたとすれば、高野山じたいもあるいは空海信仰も、空海以後に見られるような大きな発展はしなかったにちがいない。常時数千の行人が山を守り、常時万余の聖が諸国を歩き、いわば大師信仰を販売していたからこそその後の高野山がありえたといっていい。
 小説的な想像だが、高野聖が、奥州のはてまでゆき、村々に泊り、すすめられれば何十日も逗留して、加持祈祷、念仏、説法、諸国のはなしなどをする。
「この村の裏山にふしぎな泉がある。あお泉は霊泉であるゆえに大切にせねばならない」
 などと言い、その泉はお大師さんが奥州まで来られたとき(空海が奥州に行ったはずはないのだが)たまたま渇きをおぼえ、杖を地面に突き立てたところ、たちまち泉が湧いた、以後涸(か)れることがない、などという空海伝説を高野聖たちは創ってまわったにちがいない。中世以後、高野聖というものが存在しなければ、空海のあのむずかしい体系が、大師信仰という形になって民衆に根付くはずがなかったということが言えるのではないか。  

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)
 

街道をゆく9

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  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

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