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私度僧 [雑学]

 正規の僧というのは、律令以来、国家がその資格を認定し、国家が扶持(ふち)する得度者をいう。
日本に入った仏教は中国の隨・唐の仏教で、隋・唐の仏教は国家仏教であったために、日本の奈良・平安仏教も当然ながらそのようになった。
 奈良朝のころは正規の僧になるのは、明治後の高等官試験や司法試験よりもむずかしかったかもしれない。そのかわり、律師、僧都、僧正といったような僧位僧階があたえられて国家から宗教官として礼遇された。
 私度(しど)僧というのがあった。
 私的に得度して僧になる者のことを言い、律令国家はこれをきらった。律令国家は原則として人民を農業奴隷的なものにし、土地にしばりつけてその収穫から租税をとりたてるのだが、かれらはそれを嫌って逃散(ちょうさん)し、当時の用語でいう浮浪、または浪人になり、関東など僻遠の地の荘園に逃げこんで武装農民になった。武士の郎党の起源といっていい。
 逃散する者でも多少知的な連中は、私度僧になって山林を修業をし、官僧が貴族相手であるのに対し、民衆に養われて民衆相手仏果を説く連中になった。
律令国家は私度僧がふえるのは労働力の減少につながるために何度も禁令を出し、やかましくこれを取締ったが、その年々の増加は、制度上からの条件と民衆の要望で、そう仕様もなかったらしい。
 平安末期に、死後極楽にうまれたいという阿弥陀信仰が流行するとともに圧倒的に多数の私度僧が念仏をとなえてまわることになった。その頃から「聖(ひじり)」ということばが定着した。
 京都あたりでは、市民の家で死者が出ると、東山の一峰の鳥辺山(とりべやま)あたりに死体を焼きに行った。
そのあたりには念仏聖がいて、ぶじに極楽にうまれるように「阿弥陀経」をあげてやったり念仏をとなえてやったりして、お布施を得た。
本来、官僧は葬儀などというものはやらない。地下者(じげもの)である聖たちがやった。やがて官僧が死んでも、葬儀は聖たちがやるようになった。いまでも奈良の東大寺のような奈良朝の官寺では、東大寺の僧が亡くなると、葬儀は東大寺の僧がやらず、町寺(多くは浄土宗)の僧がやる。王朝以来の伝統というべきものがあり、この場合、町寺の僧というのは、鎌倉以来の念仏聖の末裔といっていい。
 鎌倉期に出た法然・親鸞などは平安期から存在しつづけている念仏聖に対して教養と組織をあたえたひととたちであり、べつのお表現でいえば聖という私度僧たちが浄土宗・浄土真宗という組織を得て公的な団体の中の人になったといっていい。
この意味からいえば、日本化した鎌倉仏教というのは、古い伝統をもつ私度僧がはじめて堂々たる仏教のにない手になったともいえるであろう。

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)
P211

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奈良県吉野郡吉野町吉野山1024


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