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別所 [雑学]

別所
 という古い日本語があるが、いまは死語である。せいぜい地名か姓などの形でしか言葉の痕跡が残っていない。
「広辞苑」(第二版)の「別所」の項では三種類の語義が付されている。そのうち二番目の語義として「本寺の周辺に結ばれた草庵の集落化したもの」とある。
中世、「別所」ということばの語義のうち、これがもっとも多く使われたように思える。
 平安仏教は、天台宗(叡山)と真言宗(東寺・高野山)が支えた。平安後期ごろから念仏がさかんになり、僧としての正規の資格をもたない聖(ひじり)たちがこの世界を担い、
 ―ひたすらに念仏をし、阿弥陀如来の本願を信じぬいてゆくだけで、他のことは要らない。
 という易行(いぎょう)道をすすめてまわった。この聖たちの念仏は、時代がくだって鎌倉期になると法然があらわれ、叡山との対立を避けつつもこの仲間たちを自然発生的な教団ながらも組織化し、さらにその弟子のなかから親鸞が出て、念仏も哲学性を深めたりする。
 それ以前の念仏聖たちは、たとえば京都では叡山に遠慮しながらも、一団をなして「広辞苑」のいう草庵を結び、念仏を専修した。
 この場合、叡山や高野山に対する遠慮から、
 「決して独立するつもりはありません。かといって、本寺のなかで念仏仲間が群れて念仏を専修するのは、はばかりがあります。でございますので、私どもは別の場所に集まってそれをやらせていただきます」
 といったようなところから「別所」という言葉がうまれたのであろう。
叡山・高野山のような本寺からみれば、別所というのは「いかがわしく非合法なもの」というイメージだったろうし、別所の側からいえば「とても私どもは、本寺のように官から身分を保証された国家的権威をもつ僧でございませんから」としてみずから別所として卑(いや)しめ、卑下することによって本寺からの迫害をふせごうとするイメージがこの言葉にこめられていたであろう。
~中略~
 高野山には、もはや平安・鎌倉期のような別所はない。
 ただ、名称が一ヵ所だけ残っている。
「真別処(しんべっしょ)」
 といわれる一画である。真別処は、鎌倉期では「新別所」と呼ばれていた。>

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)
P226

DSC_0282 (Small) (2).JPG浄土寺
兵庫県小野市

 


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