小作 [雑学]
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明治維新直後、太政官の財政基礎は、徳川幕府と同様、米穀である。維新で太政官は徳川家の直轄領を没収したから、ほぼ六百万石から八百万石ほどの所帯であったであろう。
維新後、太政官の内部で、米が財政の基礎をなしていることに疑問をもつむきが多かった。 「欧米は、国家が来期にやるべき仕事を、その前年において予算として組んでおく。ところが日本ではそれができない。
というのは、旧幕同様、米が貨幣の代りになっているからである。米というのは豊凶さまざまで、来年の獲れ高の予想ができなから、従って米を基礎にしていては予算が組みあがらない。よろしく金(かね)を基礎とすべきであり、在来、百姓に米で租税を納めさせていたものを、金で納めさせるべきである」
明治五年、三十歳足らずで地租改正局長になった陸奥宗光が、その職につく前、大意右のようなことを建白している。
武士の俸給が米で支払われることに馴れていたひとびとにとっては、この程度の建白でも、驚天動地のことであったであろう。
が、金納制というのは、農民にとってたまったものではなかった。
農民の暮らしというのは、弥生式稲作が入って以来、商品経済とはあまりかかわりなくつづいてきて、現金要らずの自給自足のままやってきている。「米もまた商品であり、農民は商品生産者である」というヨーロッパ風の考えを持ちこまれても、現実の農民は、上代以来、現金の顔などごとんど見ることなく暮らして来たし、たいていの自作農は、米を金に換えうる力などもっていなかった。
~中略~
「安い金で買ってもらったんです。地主に金納してもらい、自分は先祖代々耕してきた田を依然として耕し、以前、藩に米を納めたように、地主に物納してゆく。つまり、小作になったわけです」
と、池田翁はいう。全国的にその傾向があり、これによってどの府県でも圧倒的な大地主というのはこの時期にできあがるのだが、その間(かん)のことを、池田翁のように父親からなまに聞いてきた人が肉声で言うのを聴くのは、ちょっと凄味があった。
この消息を池田翁は、やや諧謔をこめて、
「地主だって、小地主はそう田地を持ちこまれても、金納の能力はない。そこをなんとかお願いします、といって、酒や赤飯を持って行ってただで引きとってもらった例も多いんです。そういうぐあいにしてみな小作になった」
やがて小地主も倒れてゆき、大地主だけは膨れ、明治政府は大地主から得た金で財政をまかなってゆくのだが、大正期になると、小作農は暮らしの苦しさと政治意識の自覚が高まって、各地に小作争議が頻発する。
街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)
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