常なるものなどない [哲学]
P68
四八 絶えずつぎのことを心に思うこと、すなわちいかに多くの医者が何回となく眉をひそめて病人たちを診察し、そのあげく自分自身も死んでしまったことか。
またいかに多くの占星術者が他人の死をなにか大変なことのように予言し、いかに多くの哲学者たちが死や不死について際限もなく議論をかわし、いかに多くの将軍が多くの人間を殺し、いかに多くの暴君がまるで不死身であるかのように恐るべき傲慢をもって生と死の権力をふるい、そのあげく死んでしまったことか。
~中略~
要するに人間に関することはすべていかにかりそめでありつまらぬものであるかを絶えず注目することだ。
昨日は少しばかりの粘液(50)、明日はミイラか灰。だからこのほんのわずかの時間を自然に従って歩み、安らかに旅路を終えるがよい。
あたかもよく熟れたオリーヴの実が、自分を産んだ地を讃(ほ)めたたえ、自分をみのらせた樹に感謝をささげながら落ちて行くように。
P85
二三 存在するもの、生成しつつあるものがいかにすみやかに過ぎ去り、姿を消して行くかについてしばしば瞑想するがよい。
なぜならすべての存在は絶え間なく流れる河のようであって、その活動は間断なく変り、その形相因(アイティア)も千変万化し、常なるものはほとんどない。
我々のすぐそばには過去の無限と未来の深淵とが口をあけており、その中にすべてのものが消え去って行く(22)。
マルクス・アウレーリウス 自省録
マルクス・アウレーリウス (著), 神谷 美恵子 (翻訳)
岩波書店 (1991/12/5)
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