忖度( ソンタク) [日本(人)]
日本のあり方がいいといっているわけではない。
「察する」
という点で、日本人が長(た)け、アメリカ人は弱い、というディーン・バークランド教授の意見に同感し、それについて、私は感想を補足したまでである。
さらにくどくいうと、日本人は”察する”ことに長じているために沈黙し、アメリカ人は、この世に”察する”などは存在せぬはずだという”はず”があるために、主題に関する全空間を自分の言語と論理でうめつくそうとする。
そういう両国が、一八五三年(嘉永六)以来、摩擦をつづけてきたのである。
アメリカ素描
司馬 遼太郎(著)
新潮社; 改版 (1989/4/25)
P139
- ショップ: 楽天ブックス
- 価格: 853 円
誤った情報を見抜け-ほんとうの「食の安全」を考える [日本(人)]
残念ながら食品の安全性の分野においては、大手新聞やテレビ局を筆頭にメディアの発信する情報は間違ったもの、背景説明が不十分なために誤解を招くもののほうが多いというのが現状です。
インターネットや書籍などはさらに惨憺たる状況で、情報を積極的に集めようとする志の高い人ほど間違った情報に翻弄されやすくなっています。
世界のなかの日本、という現状を考えれば、英語で発信されている情報も含めてきちんと収集できれば、ある程度常識的な根拠のある情報にたどり着くのはそう困難ではないかもしれないのですが、英語の専門的文書が多くの日本人にとって敷居が高いのもまた事実です。
畝山 智香子 (著)
ほんとうの「食の安全」を考える―ゼロリスクという幻想
化学同人 (2009/11/30)
P2
ほんとうの「食の安全」を考える―ゼロリスクという幻想 (DOJIN文庫)
- 作者: 畝山 智香子
- 出版社/メーカー: 化学同人
- 発売日: 2021/12/27
- メディア: 文庫
自己決定権と自己責任 [日本(人)]
養老 医者の場合は、告知した方が楽に決まってるんですよ、当然。医療訴訟が起こりにくくなるし、いわゆるインフォームドコンセントですから治療がやりやすい。
あなたはガンですからこうこうこういうことをするんですよって言えるでしょう。それ、以前はどうやっていたかっていうと、有名な話があるんです。
旦那さんがガンで、告知はしていない。それでその患者さんと奥さんを前にして、放射線科の医者が、ガンだって言えねえから、しょうがない、苦し紛れに適当な理由つけて、放射線の治療をしますとインフォームしたわけです。
そしたら、奥さんのほうが「先生、放射線治療をするってことは、主人は本当はガンじゃないですか」って。
で、患者である旦那さんのほうが、「お前、先生に向かってそんなこと言うもんじゃない」。
これが古き良き日本だったんですよ。それが通じない世界になったでしょう。通じない振りをするというか。
これ、非常に難しい問題になっていますよ。先生にお任せしますという態度には裏表ありまして、すごんでる場合も有り得るわけです。
うまくいかなかったらただじゃおかねえぞっていう。極端に言えばね。
養老 孟司 (著) 玄侑 宗久 (著)
脳と魂
筑摩書房 (2007/05)
P185
山人の文化 [日本(人)]
日本の仏教を語るとき、聖徳太子の次になぜ役小角がくるのか。私の考えを語ろう。
私は日本の基層文化を縄文文化とし、日本という国家は、渡来した弥生族が土着の縄文人を征服してつくった国家であると考える。
この弥生人である最終的な日本の征服者が、いわば皇室の祖先にあたる天孫族である。
~中略~
弥生人が平地を占領して国をつくったとしたならば、土着の縄文人はどこへ逃げるか。それは当然山である。
若き柳田國男が「遠野物語」で描いた、里人を驚嘆せしめる山人の文化はこのような山に逃げた縄文人の文化とみてよい。
~中略~
役小角のように、山人は縄文時代から脈々と伝わる呪術に長じ、また新しい呪術である道教や仏教をとり入れ、里人がとうていもつことのできない呪力をもっていたのであろう。
梅原猛、日本仏教をゆく
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2004/7/16)
P27
世界に冠絶する美の国になったか [日本(人)]
敗戦の悲傷は、厳然と残った(住人注;戦火を免れた大和の古寺の)伽藍(がらん)に却(かえ)って痛ましいものを感じるのではなかろうか。祖宗の霊は安らかに眠ることはできない。
国民の道義はすたれ、信仰の日は去ろうとしている。神々の黄昏(たそがれ)が来て、ただ無信仰の眼に好奇的にさらされるであろう悄然(しょうぜん)たる古寺の姿を僕は想像するのである。
戦争は終わった。斑鳩の地をはじめ大和一帯は、やがて観光地として世界の客人を招くであろう。観光地としての再生―僕らはかかる再生を喜んでいいのか、悲しむべきであるか。
~中略~
また異邦人の客人に劣らず札びらを切って豪遊するのも無風流なことだ。観光地としてではなく、聖地としての再生―これこそ僕らの念願ではなかったろうか。観光地として繁栄する平和の日などは軽蔑(けいべつ)しよう。
日本を世界に冠絶する美の国、信仰の国たらしめたい。そのためにはどんな峻厳(しゅんげん)な精神の訓練にも堪えねばならぬと僕は思っている。一切を失った今、これだけが僕らの希望であり、生きる道となった。そういう厳しい心と、それに伴う生々した表情を古都にみなぎらすことが大事だ。
かかる再生が日本人に可能かどうか、大なる希望と深い危惧(きぐ)の念をもって僕はいまの祖国を眺める。
大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P41
神と仏の共存と神仏分離 [日本(人)]
私は、真言密教の日本の思想に対するもっとも大きな影響は、真言密教によって神と仏が一体となったことであると思う。
六世紀半ばに移入された仏教は従来の日本の神道とトラブルを起こし、その結果、蘇我・物部の戦いという宗教戦争が起こり、戦争は蘇我側、仏教側の完全な勝利に終わったが、神と仏との関係はその後も多生ぎくしゃくしていた。
しかし東大寺建造にあたって、応神天皇を主神として祀る宇佐八幡が宇佐から上京し、天神地祇(ちぎ)を代表して東大寺建造を祝福して以来、神と仏の新しい蜜月関係が生まれたのである。
この蜜月時代は空海の真言密教によって決定的となる。東寺の境内にある鎮守八幡宮は平城一派の人々の怨霊の鎮魂のために空海が建てたものとされるが、そこに空海が造ったという僧形八幡神像がある。僧形八幡神像というのは宇佐八幡の主神、応神天皇が僧形になったものであり、これほど神と仏の合体を明らかに示すものはない。
~中略~
密教寺院には金銅仏などはなく、ほとんどすべて木彫仏である。日本人にとって木はもともと神を宿すものであり、仏像が木で造られることによって神と仏はまさに一体化したといってよい。そして日本人にとって神は異形の姿をしていると考えられ、異形の行基仏や密教の仏などは神に近いものと考えられたのであろう。
神と仏はこのように空海以来、多生の屈折があるものの、仲よく共存していたが、明治維新政府は神仏分離、廃仏毀釈の政策をとることによって神と仏を分離し、仏を廃棄してしまった。
この政策の影響は今なお根強く残っていて、現在でも仏教は公教育から締め出され、一木一草の中に神仏をみるという、千年の間、日本人の心性を培った信仰は失われてしまった。
現在、日本人の精神の空白がしきりにささやかれるが、空白を回復するには神仏分離、廃仏毀釈の政策を深く反省し、神と仏の融合を図った空海の思想を復活させねばならないであろう。
梅原猛、日本仏教をゆく
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2004/7/16)
P57
若いもんは働きませんで [日本(人)]
小笠原 しうとめの嫁いじめでありますか?昔は多かったといいますが、そういわれて見ると、この村にはなかったようで・・・。
~中略~
金田茂 そうでございますのう、この村で七十年の間に姑と嫁が仲がわるくて家の中がごたごたするのが目立っていたというのは今の話ぐらいでありましょうか。うわさのたつ家もありますが、それはあたりまえの家ではなうて、どこかすこし違うております。口ではよく姑の嫁いじめと言いますが、さてとなってさがしてみると案外ないもんですのう。それより嫁の姑いじめのほうが多いのではないかな。
小笠原 それはある。どこの家でも大なり小なりあります。ただ女のくらしがらくになりました。それだけどうらくになりましたが・・・・。
金田金 婆さんはまた名おうてのキッチリ屋、嫁が困るという話じゃが・・・・。
小笠原 そんなことはありません。嫁は嫁でわたしはわたしです。嫁に気に入らん事をすすめはせん。はァ、わたしは子どもの時からそうであったから、今でも腰巻は日かげに乾す。どうもお日さまによごれたものを向けては申しわけないと思っていますで・・・・。しかし、私は嫁にはそうせえとは言いません。死ぬる時にはいやでも嫁の世話にならにゃァならんのに、なんで嫁の気に入らんようなことがいわれましょうかいの。あんたでもおなじでしょうが。
金田金 そうよのう。わしも子供にがみがみ言いとうないから隠居したんで・・・。一人でおれば誰に遠慮なしに働けるで・・・・。
小笠原 そうでしょうが、わしら働き通しに働いて来たもんは、年をとっても働いておらんと気がおさまらん。そりゃあもう性分じゃから仕方がないわの。誰が何というても働かしてもらわにゃァ・・・・。
金田金 ほんに、楽しようと思うて隠居したんじゃないんだから。
小笠原 そりゃァ、今の若いもんは働きませんで・・・・。
忘れられた日本人
宮本常一 (著)
岩波書店 (1984/5/16)
P80
昭和時代 [日本(人)]
昭和は一九二六年から六十三年続いた。これは英国のヴィクトリア時代が、一八三七年から六十四年続いたのに匹敵する。その間にイギリスは世界で最初の近代産業国家となり、七つの海に覇を制した。それは大英帝国の最盛期であった。
ヴィクトリア女王女王が崩御した一九〇一年は明治三十四年に当たる。その四月二十九日、昭和天皇は生まれた。
昭和には二重のドラマがあった。軍国日本の壊滅と経済大国の蘇生である。
かつて降伏宣言を余儀なくされた君主で、その後もその地位にとどまり、国民の敬愛を受け、廃墟の復興と繁栄をまのあたりにした君主は他にない。
だが敗戦国が不死鳥のようによみがえったことに対して、日本たたきは再開され、戦争責任追及も蒸し返された。
しかしビクトリア女王に対し阿片戦争の戦争責任を追及する人はいない。立憲君主に法的責任はないからだ。
それよりも年配の人は昭和天皇のお蔭で平和が回復されたことを知っている。そんな昭和時代は世界史上の奇跡といっていい。
日本人に生まれて、まあよかった
平川 祐弘 (著)
新潮社 (2014/5/16)
P258
村里の生活 [日本(人)]
こうした話を細々と書いたのは、昔の村の姿がどのようなものであったか、村の伝承がどのような場で、どんな時に必要であったか、昔のしきたりを語りあうということがどういう意味をもっていたかということを具体的に知っていただきたいためであった。
日本中の村がこのようであったとはいわぬ。がすくなくとも京都、大阪から西の村々には、こうした村寄りあいが古くからおこなわれて来ており、そういう会合では郷士も百姓も区別はなかったようである。
領主―藩士―百姓という系列の中へおかれると、百姓の身分は低いものになるが、村落共同体の一員ということになると発言は互角であったようである。
~中略~
といって郷士と百姓は通婚できなかったり、盆踊りに歌舞伎芝居の一齣(ひとこま)のできるのは郷士に限られていたり、両者にいろいろの差別は見られたのである。差別だけからみると、階級制度がつよかったようだが、村里内の生活からみると郷士が百姓の家の小作をしている例も少なくなかったのである。そしてそれは決して対馬だけのことではなかった。
そうなると村里の中にはまた村里としての生活があったことがわかる。
忘れられた日本人
宮本常一 (著)
岩波書店 (1984/5/16)
P19
戸上神社秋季大祭
村の寄りあい [日本(人)]
私にはこの(住人注;対馬の伊奈の村の)寄りあいの情景が眼の底にしみついた。この寄りあい方式は近頃にはじまったものではない。
村の申し合わせ記録の古いものは二百年近い前ののものもある。それはのこっているものだけれどもそれ以前から寄りあいはあったはずである。
七十をこした老人の話ではその老人の子供の頃もやはりいまと同じようになされていたという。ただちがうところは、昔は腹がへったら家へたべにかえるというのではなく、家から誰かが弁当をもってきたものだそうで、それをたべて話をつづけ、夜になって話がきれないとその場へ寝る者もあり、おきて話して夜を明かす者もあり、結論が出るまでそれがつづいたそうである。
といっても三日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。
話といっても理屈をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。
忘れられた日本人
宮本常一 (著)
岩波書店 (1984/5/16)
P16
会議 [日本(人)]
いまのこの事態におけるこの時機をもって攘夷を放棄し、政治的大旋回をすることによって藩をすくい、さらに日本開国の先鋒になろうとしている者は、この大攘夷藩である長州で三人しかいない。
晋作と井上聞多、それに伊藤俊輔であった。
藩役人は、この三人党を利用して攘夷を放棄しようとし、四ヵ国艦隊との講和を遂げようとした。
「が、どうせ骨の髄からそうおもっているのではない」
と、最初から見ぬいていたのは井上聞多であった。
井上はアーネスト・サトーと同様、役人というものを知っていた。
一国一藩の安危よりも自分の保身から物事を思考し、大事をきめるときは、かならず会議をし、すべての責任は「会議」がとるという建前をとり、責任を問われれば、
「自分一個はそうはおもっていないが、会議でそうきまったことだから」
という理屈をつかって責任の所在を蒸発させてしまう世界であるということを井上ほど知っていたものはない。
~中略~
が、井上が憂えていたとおりの事態になった。
世に棲む日日〈3〉
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋; 新装版 (2003/04)
P229
唐戸市場
エビス [日本(人)]
皇室と日本人 [日本(人)]
「私<寛仁親王殿下 >は伯父様<高松宮殿下>をずっとお手本にしてきたところがあって、こういう言い方は申し訳ないんだけれど伯父様を水先案内人と心得てやってきました。中でも伯父様が生前よくおっしゃっていたのは、皇族というのはいにしえの昔から国民に守られてきたんだ、ということです。
京都の御所を見てもそのことがよく分かる。あそこはどこからでも侵入できるし、外国の城のような濠もなければ、高い塀もない。
ところが長い年月、泥棒が入るでもなくずっとあなままの佇まいでありつづけているわけです。伯父様は、そのことを見ても皇室がいかに国民によって守り育てられてきたがが分かるとおっしゃっていました。
私もその通りだと思います。」
(寛仁親王殿下「皇室と日本人」「文芸春秋」93年7月号)
語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」
竹田 恒泰 (著)
小学館 (2005/12)
P236
語られなかった皇族たちの真実 若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」 (小学館文庫)
- 作者: 竹田恒泰
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2012/10/26
- メディア: Kindle版
北方四島 [日本(人)]
マッカーサーの記者会見(住人注;昭和二二年(一九四三年)三月一七日)から四ヵ月ほど経った昭和二二年七月一一日、ついに米側が具体的な動きを見せた。
対日講和予備会議の開催を各国に呼びかけたのだ。ここから講和会議は急速に進展を見せ始める。
講和の流れに敵意むき出しの反応で応じた国もあった。ソ連である。
昭和二二年七月、反共教育を受けた日本人を島にとどめるのは危険だからという不可解な理由で、北方四島の日本人島民に対し強制退去を命じたのだ。当初一万七〇〇〇人いた島民は昭和24年にはほぼ全員が退去させられた。その後現在に至るまで北方領土は帰って来ていない。
吉田茂 ポピュリズムに背を向けて<下>
北 康利 (著)
講談社 (2012/11/15)
P113
八坂神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%9D%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE
山人(やまひと) [日本(人)]
山人(やまひと)という語は、この通り起源の久しいものであります。自分の推測としては、上古史上の国津神 が末二つに分かれ、大半は里に下って常民に混同し、残りは山に入りまたは山に留まって、山人と呼ばれたとみるのですが、後世に至っては次第にこの名称を、用いる者がなくなって、かえって仙という字をヤマビトと訓(よ)ませているのであります。
山の人生
柳田 国男 (著)
角川学芸出版 (2013/1/25)
P190
日本が乗っ取られるかも [日本(人)]
2050年の日本の姿を描く国土交通省の「国土のグランドデザイン2050」(2014年)を丹念に読んでみると、寒気すら覚える。
~中略~
人の目が届きにくくなる場所が増えれば、治安だけでなく、国防の危機にも直結する。
端的な例が離島だ。 ~中略~
言うまでもなく、国境離島や外洋離島は排他的経済水域の重要な根拠となる。エネルギーや鉱物資源確保、漁業や海上輸送の自由と安全な航行など、海洋秩序を守るための大きな国家的役割を担っているのだ。
だが、そうした期待に応えられるのも、そこに住民が住んでいるからである。より多くの人が住み、主権が明確なほうがよいということだ。
~中略~ 無人島が増えれば、それだけ自衛隊や海上保安庁が目を光らせなければならないエリアも増え、その分、日本の防衛力自体が低下する。
未来の年表 人口減少日本でこれから起きること
河合 雅司 (著)
講談社 (2017/6/14)
P138
未来の年表 人口減少日本でこれから起きること (講談社現代新書)
- 作者: 河合雅司
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2017/06/14
- メディア: Kindle版
日本人は近代的熟成したか [日本(人)]
司馬 前略~
大久保は有司独裁制を唱えた。「民権もわからんことはないが、しかし日本人にはまだ早い。まず制度を整え、教育をさかんにし、民度をレベル・アップすることだ。
レベル・アップしてから民権に移るべきで、それまではいわわ培養期である。培養期は有識者である官僚が国家権力をどんどん行使して国家そのものの塑型をつくりあげねばならん。だからそれまでは民権どころか、在野異論というものはいかん。そんなものには鉄槌をくだす」というのが大久保の政治的立場でございますね。
~中略~
さらに彼が民権に無理解でなかった証拠には、勝海舟の「氷川清話」に、「大久保とわしは話をして、明治三十二年頃になれば日本でも国会を開こうということにハラを合わせていた」とあるのですが、これが事実とすると、いや事実でしょう、大久保はそう思っていた。
結局は国会が明治二十一年でしたか、えらくそれより早期に開かれるのですが、勝は「早すぎたよ」と言っています。
早すぎたかも知れません。なぜなら国会が開かれるや、政党は党利党略のみで、丁度こんにちの国会の原型をはやくも露呈している。
明治三十年代には小村寿太郎などは、「日本は国会によってつぶれる。政党などというのは西洋では根のある存在だが、日本の政党はフィクションなんだ。フィクションが国家の運命を握っている。
官僚はしっかりせねばならん」と言っているように、あるいは理想論からいえば大久保と勝のいうように早すぎたのかも知れません。日本人の近代的熟成を待つべきだったのかもしれません。
新装版 日本歴史を点検する
海音寺 潮五郎 (著), 司馬 遼太郎 (著)
講談社; 新装版 (2007/12/14)
P136
遍路 [日本(人)]
なぜ四国におけるそのような巡礼を、とくに「遍路」と呼ぶのでしょうか。それはこの四国の地が日本列島の中でとりわけ辺境の地と考えられてきたからだと思います。
辺境の地というのは四国の他にもたくさんありますが、いつしかこの地が辺境の地の中の辺境、と考えられるようになったのです。
観音霊場を行く人々を「巡礼」というのに対して、四国の霊場を巡り歩く人々をとくに「お遍路」「お遍路さん」と呼び慣わしてきたのはそのためです。
山折哲雄の新・四国遍路
山折 哲雄 (著), 黒田 仁朗(同行人) (その他)
PHP研究所 (2014/7/16)
P12
日本人の土地所有欲 [日本(人)]
P32
(住人注;奈良・平安朝の律令体制の土地制度で)土地はいっさい「公」のものというのが建前で、この場合、公とは明治以後の西洋輸入の概念の社会ということではなく、「公家(くげ)」という概念に即した公である。具体的には京の公家(天皇とその血族官僚)が「公田」に「公民」を縛りつけ、収穫を国衙経由で京へ送らせることのよって成立していた制度であった。
この「公民」をきらった者が、逃散して浮浪人になり、関東などに流れて原野をひらき、農場主になった。
ただ律令体制ではそういう場合の土地所有の権利が不安定だったため、かれらは流人の頼朝を押し立て、京の「公家」に対抗し、ついに鎌倉幕府頼朝にひらかせることによって、自分たちの土地所有の権利を安定させた。
私はそういう意味で、鎌倉幕府の成立というのは明治以前における最大の革命だった思うのだが、ただ、「公家」を潰さずにその権威や制度、あるいは官名といったものを政治的習俗として残したというところに、可笑し味がある。
P47
塵芥を非私有地に投げ散らかす光景はむしろいまの日本的風景の特徴というべきもので、亀田郷にかぎったことではない。例えば大阪府南河内郡というのは上田正昭教授のいう「河内王朝」の故地で、大和の飛鳥に匹敵するような丘陵と田園の美しい土地だった。ところがここ十数年来の土地ブームに翻弄され、農地が宅地や一般地に転用され、しかしいろんな事情で家も工場も建たぬ所がおおく、「何々々用地」という棒杭だけが立って空地になっている。そういう空地に塵芥が投棄されていて、亀田郷の鳥屋野潟どころでなく、この一億倍も荒涼としている。異常な国土といっていい。
こういうすさまじさは、風景を公的なものとして見る伝統のなさとつながっている。さらには、稲作という、どういう狭い土地でも水と日光があれば生産化しうるという農業が伝統になってきたために土地所有欲が牧畜を基盤とする社会に比べて病的に強く、その私有感覚の苛烈さが、裏返って非私有地とみればそこへ何を投棄してもかまわないという気持になるらしい。
まことに日本人の土地所有欲は苛烈である。かつての農民は、田のあぜが隣の田のぬしによって一ミリ削られているだけで、相手を殺しかねないほど昂奮したが、農村から出て都市化した地域に住んでも、この精神の濃厚な遺伝をもっている。
街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)
奈良県吉野郡吉野町吉野山1024
島国のくせに内陸国家 [日本(人)]
私は古代の漁撈集団というのは、東アジアの沿岸に貼りつき、東北アジアの海を共通の宇(いえ)として暮らし、似たようなクリヌキの小舟と似たような漁法をもち、また以下のことは、やや空想の域を出ないが、神話や語彙(ごい)において共通点が多かったかと思える。
日本での古代漁労集団は安曇(あづみ)族とよばれるものだが、この集団が、遼東半島から朝鮮半島の黄海沿岸に住んでいた同業の連中とまったく無縁だったとは考えられない。
中国では、漁民は徹底して軽んじられてきた。中国体制を参考にした律令日本の立国もまた農をもって基本としたため漁労民は大いに軽んじられた。その意味では明治以前の日本は小さな島国のくせに内陸国家であったといってよく、このため外洋への航海と船舶は容易に発達しなかった。
日本で外洋船が出現するのは、飛鳥・奈良朝の遣隋・唐使船の派遣からである。当時の日本人たちにとって船と言えば小さな漁舟(いさりぶね)のことで、外洋船など、どう建造してしいのかわからなかったにちがいない。
妙なことに、朝鮮半島では比較的早くから外洋船が発達していた。
たとえば北方の高句麗(北朝鮮と南満州の一部)などは、日本海を縦断できる外洋船を古くから持っていたということからみて、一種海洋国家の要素をもっていてのではないかと思える。このことはこの地に高句麗という民族国家ができる以前、漢の植民地で、楽浪郡などが置かれ、その文化や技術を高句麗が継承できたというせいではないかと思えるが、想像でしかない(ただしこんにちの朝鮮の歴史家のあいだでは漢の楽浪郡の影響を考えることは一般によろこばれないらしい。
しかし文化というものは他文化の影響で変化し発展するものであるということを考えると、農業と牧畜の国家だった高句麗が、外洋船の建造能力をもっていたという意外さは、他からの影響として考えるほうがよりきらびやかであるし、また常識的ではないかと思ったりする)。
南朝鮮の黄海沿岸の上代国家であった百済(~六六〇)も、外洋船をもっていた。
百済はどういうわけか、華北の北朝にはつよい関心を示さず、揚子江以南で興亡した六朝(りくちょう)(二二二~五八九)の遊び性のつよい貴族文化が好きで、わざわざ遠い揚子江河口まで船をやっては、朝貢(ちょうこう)貿易をつづけていたために、黄海から東シナ海を突ききってゆく外洋船が必要だったのである。こんにち百済船と六朝船とを技術的に比較する材料がないが、両地帯の大船建造法は似ていたのではないか。
七世紀後半に百済が新羅のためにほろぼされ、その遺臣や遺民が大量に日本にきて、日本の上代文化に重大な影響をあたえた。
日本の外洋船の建造技術にも、大きな影響をあたえた。竜骨などはむろんなく、船底も扁平で、構造的には箱をつくるように戸板のような平面をべたべたと張りつけただけのものであった。つよい横波などを連続的にうけるとばらばらになったりして、構造上、東アジア各地の大船のレベルからみると、もっとも脆弱(ぜいじゃく)だったのではないかと思える。
同時代の新羅の外洋船のほうが、まだましだった。新羅はいわゆる三韓のうちではもっとも後進国だったが、百済をほろぼし、高句麗の故地をあわせ、唐の勢力を追っぱらって朝鮮半島における最初の統一国家をつくった。当然、高句麗の故地をあわせ吸収したに相違なく、遣唐使船時代の記録をみると、新羅船がいかにも堅牢で安全そうで、日本側からみればひどくうらやましいといった感じが匂ってくるようである。
~中略~
遣唐使は寛平六(八九四)年に廃止されたが、以後、日本における外洋航海も途絶え、大船建造の技術も衰退した。
平安末期、平清盛が航海貿易策をとりながらも、それを実施する大船についてはわざわざ宗から操船者付きで買い入れるざるをえなかった。いかに日本が海洋国家としての実がなかったかということになるであろう。
清盛が唐から船員付きで購入したのが「高倉院御幸記」にでてくる唐船である。
街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)
P181
奈良県吉野郡吉野町吉野山1024
小さく貧しく老いていく日本 [日本(人)]
P111
そんなリー元首相(住人注;辛辣なリー・クワンユー、シンガポール元首相)は、昨今日本に対して厳しい。近著では「私が、英語を話せる若い日本人だったら国を出ていくだろう」と日本の未来にかなり悲観的である。
これだけ聞くと辛辣だが、全部読むと実に論理的な分析で、悔しいが認めざるを得ない感じにもなる。
日本がこのまま日本人だけの純血主義を押し通せば、人口は減り、国は老いていき、そして国家として小さく貧しくなる。その日本が中国や朝鮮半島の隣にありながら、小さく貧しく老いていくのは、リスクが高すぎるという。その背景には世界の警察官の役割を果たせないアメリカの存在もあると見る。
P218
これからは残念ながら日本には厳しい時代がやってくる。一番の問題は人口減少だ。これに対応すべく外国人を受け入れ始めるのか?あるいは純血主義を貫き、衰退の道を選ぶのか?どちらにしても、”今謳歌している心地よい日本”ではなくなっていくと思う。これにテクノロジーの進化と気候変動と東アジアの地政学的不安定さが加わり、私たちの人生は今までのようにのんきにはいかないと思う。
頭に来てもアホとは戦うな! 人間関係を思い通りにし、最高のパフォーマンスを実現する方法
田村耕太郎 (著)
朝日新聞出版 (2014/7/8)
群れのおきてが絶対 [日本(人)]
次に引用する中村元氏の文は大変示唆的である。
「一般的にいえば、日本人が外国の宗教を摂取する場合には、まず何らかの具体的な人倫的組織(住人注;日本人社会?)を絶対視していて、それをそこなわない限りにおいて、あるいはそれを助長し発展せしめると考えられる場合に、摂取採用したのである。宗教を心から信仰していた個々人の意識においては帰依随順であったにちがいないが、日本人の社会全体としてはやはり摂取採用したにすぎないのである。」
中村 元 「東洋人の思惟方法3」春秋社 昭和三十七年
「甘え」の構造 [増補普及版]
土居 健郎 (著)
弘文堂; 増補普及版 (2007/5/15)
P70
悪神をも和め祭る [日本(人)]
交戦国が戦争やその責任者について見方を異にするのは当然です。判断は一致しません。
降伏意志をすでに示した国に原爆投下を命じたアメリカ大統領こそ戦犯だと私は思いますが、米国は勝利し罪は問われません。非人道的な無差別爆撃をしながら戦死した米兵も米軍墓地に祀られているでしょう。だがたとえそうした人の名が刻まれていようと、アーリントン国立墓地への日本の首相の献花は当然だと私は信じます。
なぜか、政治と宗教は次元が違うからです。
二〇一四年は第一次世界大戦勃発の百周年ですが、英仏では軍紀違反で銃殺した自国の千名を越す兵士たちも「苛烈な戦闘におとらぬ過酷な軍紀の犠牲者」として「国民の歴史的記憶のなかに迎え入れるべきである」(ジョスパン)という処置がとられました。(「ル・モンド」二〇一三年十一月九日)。軍法会議の結果、銃殺に処せられた兵士たちを許すことに当初反対したサルコジたち政治家も後には同意したということです。
死者は区別せずにひとしく祀るのがいいのです。そのことをはっきり信条としているのが神道で、この宗教では善人も悪人も神になります。
「善神(よきかみ)にこひねぎ・・・。悪神(あしきかみ)をも和(なご)め祭」ると本居宣長は「直毘霊(なおびのみたま)」で説明しています。
日本人に生まれて、まあよかった
平川 祐弘 (著)
新潮社 (2014/5/16)
P80
死者を許す文明 [日本(人)]
が、そのなかでも特に私がはっと思ったのは、魯氏(吉林大学日本研究所所長・魯義(ルーイー)氏がA級戦犯を祀る靖国神社への首相の参拝問題に触れて、「日本人は死者を責めないけれども、中国人は死者であっても許さない」といっている点だった。
~中略~
あえていってみれば、死者を許す文明と死者を許さない文明、ということになるだろうか。
~中略~
それ(住人注;韓国の文芸評論家・李御寧(イオリョン)氏の「恨(ハン)の文化論ー韓国人の心の底にあるもの」によると、韓国文化の母体となっているものがそもそも「恨の文化」である。
日本語で「恨み」は「怨」と「恨」にあてられ、ほぼ同じ意味に用いられているが、韓国ではその二つの言葉は区別されなければならない。
すなわち、「怨」というのは他人に対して抱く感情であり、外部の何かについて抱く感情である。ところがこれに対して、「恨」はそうではない。それはむしろ、自分の内部に沈殿し、鬱積していく情の塊なのだという。
「怨」は熱っぽい。復讐によって消され、晴れる。だが、「恨」は冷たい。望みがかなえられなければ、解くことができない。「怨」は憤怒であり、「恨」は悲しみである。だから、「怨」は火のように延々と燃えるが、「恨」は雪のように積もる。
山折 哲雄 (著)
天皇の宮中祭祀と日本人―大嘗祭から謎解く日本の真相
日本文芸社 (2010/1/27)
P240
旅の恥はかき捨て [日本(人)]
日本人の単一性 [日本(人)]
大前(住人注;大前 研一)
私は日本の問題というのは、個々の問題よりも、なんとなく一億二千万の人がいとも簡単に一つの意見に、しかも盲信に近いものにまとまってしまう。それを教え込まれた次の世代も同じことを言い出す。日本は国土が狭いから住宅が狭いのはしようがない、というようなのがこの盲信の典型です。
司馬 集団ヒステリーが極めて起こりやすい国ですね。たとえば昭和元年ぐらいから、日本は大曲がりに曲がって行ったときに、いくつかのキャッチフレーズがあったけれども、盲目的コンセンサスをえたのは「満蒙は日本の生命線」です。これは松岡洋右が何かの拍子に言った言葉なんですが、それをいろんな人が取り上げて、全員が信じた。何もリアリティはありません。
対談集 日本人への遺言
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1999/01)
P68
誰が国・家族を守りますか? [日本(人)]
人間という哺乳類は、集団を組まねば生きてゆけない。その集団のなかでもっとも魅力的で、人を酔わせ、かつ厄介なのは、フランス革命の果実であるところ国民国家であるといえる。こんにちの国々のことである。
その国家の主人は法的にも思想的にも、多分に抽象概念としての国民である。国民が主人である以上、主人たる者が国家防衛の主役たらざるをえない。
個々の具体的レベルになると何ノ何ベエという者が徴兵によって兵役に服する。
アメリカ素描
司馬 遼太郎(著)
新潮社; 改版 (1989/4/25)
P52
殯(もがり) [日本(人)]
殯というのは、死後その人間の遺体を一定期間地上に安置することをいう。そのためにかりの宮を建てる。これを殯宮といった。
遺体は、その殯が過ぎてから埋葬された。
~中略~
「日本書紀」に記されている前述の天武天皇の場合が参考になる。天武天皇の殯期間は二年二ヵ月の間続き、そのあとになって遺体が埋葬された。
その間、亡くなった天武天皇の生前の功績を称える「しのびごと」が奉られ、同時に死をいたむ「発哭」(みね)(「奉る」の意)の儀礼が繰り返しおこなわれている。
しかも注意すべきは、その殯の全期間にわたって仏教僧が参加しているという点だ。
~中略~
つまり、殯の状態に置かれた遺体は、生理的には死の兆候を示しつつも、しかし社会的にはいまだ完全に死の宣告を下されてはいない。さきに、死と生の間の宙ぶらりんで不安定な状態といったのもそのためである。
私は殯という観念に包まれた特殊な状態は、霊と肉の分離が徐々に進行している状態をいったものだと思う。
~中略~
その霊肉分離の最終判断が下されるのが、埋葬のときであったと思う。
山折 哲雄 (著)
天皇の宮中祭祀と日本人―大嘗祭から謎解く日本の真相
日本文芸社 (2010/1/27)
P99
高野山奥の院 御廟の橋
弥生式水田農業は神である [日本(人)]
日本の奈良朝の仏教政治は、食肉を禁忌にしてしまっただけでなく、在来からあった穀物への神聖思想という不思議な宗教意識(神道)をいよいよつよめた。
伊勢神の外宮の祭神が穀物神である豊受大神であるように、また、上代以来こんにちにいたるまで宮中における最大の神聖行事のひとつが新穀を神々に捧げるという十一月二十三日の新嘗祭であるように(戦前はこの日が祝祭日になっていた。現制では勤労感謝の日ということになっている)、また民間信仰にあっては穀物神である稲荷の信仰がさかんであるように、われわれにとって弥生式水田農業はいまなお神として遺っているのである。
街道をゆく (3)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P53
国家意識の喪失 [日本(人)]
官僚は何をよりどころにすればよいのだろうか。
わたしは、それは国家意識だと考える。そしてこの国家意識の喪失が、今日の官僚の信頼性の喪失につながっているのではないだろうか。
官僚エリートは、必ずしも、大衆とともにある必要はない。
この国家意識が失われたとき、官僚は大衆から浮き上がった、セクショナル・インタレストの権化となり、大衆は、わが身のことしか考えないミーイズムの中に身を沈める。
現代日本で、まさにこのことが生じているとまで言わないが、危険な兆候が見られることは間違いないのではなかろうか。
なぜなら、国家意識を限りなく希薄化することに腐心したのが戦後日本の教育であり、文化であり、デモクラシーであった。
そして、エリート官僚たちはまさに、その戦後の教育、文化の秀才なのである。
現代民主主義の病理―戦後日本をどう見るか
佐伯 啓思 (著)
日本放送出版協会 (1997/01)
P114
現代民主主義の病理 戦後日本をどう見るか (NHKブックス)
- 作者: 佐伯 啓思
- 出版社/メーカー: NHK出版
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