丸裸の実力 [哲学]
人が衣服を脱がされたあとで、どこまで自分の地位を保てるかというのは興味深い問題である。―「森の生活」
ソロー語録
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(著), 岩政 伸治 (翻訳)
文遊社 (2009/10)
P40
悩みの大きさが迫力を生む [哲学]
表現のおもしろさや迫力は、いつもそうせざるを得ない人によって創られるのであって、
さらに言うなら、そうした「悩み」のない人に迫力のある芸術は創れない。
南 伸坊
心理療法個人授業
河合 隼雄 (著), 南 伸坊 (著)
新潮社 (2004/08)
P160
各人の時間 [哲学]
春日 「病んだ家族、散乱した室内」(医学書院)では、「家の中では、外とは違う特殊な時間が流れている」ということを書きました。
訪問診療っていうのは要するに、扉を開くことで、そこに外部の時間を持ち込んで、それにシンクロさせることなんだ、それが治療なんだという話を書いたんです。
内田(住人注:内田 樹) それ、「死と身体」で僕が書いた時間の話とまったく同じ結論ですね。
ラカンが同じようなことを言っています。要するに、精神病の患者というのは時計が止まっているのであり、その時計を動かしてあげることが治療であるということを言っている。
「死と身体」ではそこに、レヴィ=ストロース(Claude Levi=Strauss)の話を持ってきて、「時計が動くということは交換関係のなかに入っていくことだ」って書きました。
春日 どういうことですか?
内田 「交換」って、時間概念がないとできないんですよ。こちらから「あげて」、向こうから「くる」。その間にタイムラグがあってはじめて交換になる。無時間モデルでは絶対に交換はできないんです。
「治らない」時代の医療者心得帳―カスガ先生の答えのない悩み相談室
春日 武彦 (著)
医学書院 (2007/07))
P187
「治らない」時代の医療者心得帳―カスガ先生の答えのない悩み相談室
- 作者: 春日 武彦
- 出版社/メーカー: 医学書院
- 発売日: 2007/07/01
- メディア: 単行本
人格 [哲学]
そもそも「人格」とは何でしょうか。G・Wオルポートの有名な定義では、「人格とは、個人の環境に対する特徴的な行動と考えを決定している複数の心理・生理系の、個人内にある力動的体制である」とされています。 この定義について注目すべきことが二つあります。まず、ある個人の言動を観察している、つまり外から「私」を見ていること。次に「個人内にある力動的体制」は、経時的に別人格が現れる可能性を否定していないことです。
「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)
P132
みんな違う世界で生きている [哲学]
【環境世界】:ヒトはまったく同じ環境に住んでいるように見えて、それぞれに別の意味を見出し、自分なりの「環境世界」に住んでいる。(これについては次節で述べます)。
「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)
P80
死の定義 [哲学]
もちろん、心臓の停止、呼吸の停止、瞳孔の散大といった死の経過は、専門家として確認していきます。
しかし、その死の時間を機械の判断に任せるのではなくて、呼吸が止まったと周りの家族の人たちが納得した頃に、「診察をしてもよろしいでしょうか」と診させていただくようにしています。
家族の人たちにとって、それはけっこう曖昧な時間で、一度呼吸が止まっても吹き返すのではないかと思ってじっと見守っている時間です。
実際に短時間息を吹き返すこともあるわけですが、このように見守るプロセスがあった方が、生体反応が終わったんだということをゆっくり穏やかに受け止めることができるようです。
~中略~
死の定義というのは、その人といちばん深くかかわった人が、「やはり終わったんだな」と思えたときなのかなと思うことが最近は多くなりました。
山崎章郎
玄侑 宗久 (著)
多生の縁―玄侑宗久対談集
文藝春秋 (2007/1/10)
P90
足立美術館4
気 [哲学]
わたしたちは、元気を出すためのありきたりのことはすでにいろいろ実践している。もっとも簡単なのは深呼吸だ。
今では西洋の不安やストレスの治療に組み込まれているが、深呼吸はいくつもの古代の伝統に起源をもつ。「内業」は深呼吸がたんなる呼吸以上のものだと教えている。
わたしたちが吸い込んでいるのはエネルギーだ。それが自分自身をなだめ、負の感情をしずめ、リラックスするのを助けてくれる。~中略~
元気が出る別の例をあげよう。体を動かすことだ。土曜の朝ランニングに出かければ、エネルギーを蓄えられる。もっといえば、きみは自分にエネルギーを吹き込んでいる。
たしかに、足はがくがくするし、たっぷり汗もかく。一方で、おそらく陶酔感や高揚感も味わうだろう。「ランナーズハイ」と呼ばれる感覚だ。科学はこれをエンドルフィンという脳内麻薬の分泌と説明するが、「内業」は体内を流れる高純度のエネルギー、すなわち神の気として思い描く。
エネルギーがみなぎっていると、ものがより鮮明に見え、より鋭敏に感じられ、自分とそのほかの世界を隔てる壁が薄れていく。
体を動かしたあとの爽快な気分と、仕事で心躍る画期的な成功をおさめたときの気分をくらべてみよう。気分が高揚するのはランニングのときと同じだ。幸福感がこみあげ、生命エネルギーが全身を駆け巡る。あるいは、音楽コンサートやスポーツ観戦へ行ったとき、周囲の見知らぬ人たちとのあいだに生まれる信じられないような一体感はどうだろう。
観衆のエネルギーが体内で脈打つのが感じられ、すっかりわれを忘れてしまう。
こうしたエネルギーはすべてまったく同じものだ。~中略~
やっているのが体を使うことでも、頭を働かせることでも、人とかかわることでも、あの燃えるような興奮や世界との一体感は、まったく同じ身体的な感覚だ。
「内業」によると、わたしたちの経験はすべて<気>というエネルギーから生じなかでももっとも霊妙なエネルギー―爽快で生き生きした気分にしてくれるもの―は神のエネルギーだ。
ハーバードの人生が変わる東洋哲学──悩めるエリートを熱狂させた超人気講義
マイケル・ピュエット (著), クリスティーン・グロス=ロー (著), 熊谷淳子 (翻訳)
早川書房 (2016/4/22)
P154
ハーバードの人生が変わる東洋哲学 悩めるエリートを熱狂させた超人気講義 (早川書房)
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2016/04/28
- メディア: Kindle版
墨子 [哲学]
P80
墨子は、社会が人の繁栄を実現できていないという孔子学派の考えを共有していた。倫理的によりよい人間になるよう人々に働きかけるべきだと墨子も考えていた。しかし孔子学派と違い、墨子と門人たち(墨家)は儀礼がよい人間になるのに役立つ手段だとは考えなかった。
それどころか、儀礼は型にはまった無意味なもので、本当に重要なことに関心を向けるのを防げる時間の無駄でしかないとして退けた。そして、本当に重要なのは、この場合、〈天〉、すなわち、世界を創造したと信じられていた神性を真摯に信仰することだと考えた。
墨子と門人たちにとって、天は上帝であり、善悪の明確な道徳基準を定める存在だった。人間は善良な生活を送るためにその基準に従わなければならない。基準に従えば報われるし、従わなければ罰(ばち)があたる。~中略~
墨家は、ある種の公正な道徳律が宇宙を下から支えていると信じるように教え込めば、人々を倫理的にふるまわせることができ、その結果よりよい社会になると考えた。真摯な信仰の重視といい、儀礼への不信といい、善なる神性が創造した条理ある予測可能な世界への信念といい、僕家は多くの点で初期プロテスタントとかなり似ている。
P82
もちろん墨子は、人が生まれつき倫理的にふるまうことはなく、感情や私欲が妨げになることを理解していた。社会は人々の正しいおこないをあと押しするよう組織すべきだと考えた。社会は人々の正しいおこないをあと押しするよう組織すべきだと考えた。あと押しする仕組みには、なすべきことをしたときの賞(成功、金銭、名声)と、しなかったときの罰(失敗、降格、罰金)があった。善悪の判断がはっきりつく世界―勤勉が報われ、悪行が罰せられる世界―に生きていると信じられれば、人々はさもしい感情に従うのを思いとどまり、よい人間になろうと努力するはずだ。
墨子は、正しい制度が整いさえすれば、その結果、だれもが恩恵を受ける社会になると確信していた。墨子が「兼愛」と呼んだ世界だ。
ハーバードの人生が変わる東洋哲学──悩めるエリートを熱狂させた超人気講義
マイケル・ピュエット (著), クリスティーン・グロス=ロー (著), 熊谷淳子 (翻訳)
早川書房 (2016/4/22)
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道人を弘むるにあらざるなり [哲学]
端境期の知性 [哲学]
でも実際には、そうした時期には新しいところもつまみ食いしながら、古い理論の使えるところも取るというような、いい加減で、中途半端なやり方が必要なんです。
そういう端境期の「酸欠状態」を、息を止めて「グッ」と我慢する。それは、普通考えられているよりもずっとフィジカルな知性のあり方だと思います。瞬間的な判断力じゃなくて、どれくらいの時間、判断を保留したまま我慢できるのか。こういう「知性の量的な側面」というのは、なかなか問題にされてこなかったと思います。
「治らない」時代の医療者心得帳―カスガ先生の答えのない悩み相談室
春日 武彦 (著)
医学書院 (2007/07))
P171
道具に振り回されるな [哲学]
「他流では、主として大きな太刀を好んで使うものがあるけれども、わが二天一流からみれば、これは弱い流儀というべきである。
それは、どんなことがあっても敵に勝たねばならないのだということを知らず、太刀の長いことを頼りにして、敵が遠くはなれているうちに打ち、これで勝ちたいと思うので、それで長い太刀を好むようになるのである。(略)
太刀を長くすることで遠くの敵に勝とうとする、それは心が弱いからであり、弱い兵法と断定するのである。
敵が接近してきて組み合うようなことになった場合、太刀が長ければそれだけ打つことが難しくなり、太刀のうごきも限定され、結局は太刀そのものがお荷物になってしまって小脇差を使う人よりは不利になってくるのだ」
(他流に大きなる太刀を持つこと)
奈良本 辰也 (著)
宮本武蔵 五輪書入門
学習研究社 (2002/11)
P210
天地自然の理 [哲学]
草木纔( わずか )に零落すれば、便ち萌頴( えい )を根底に露す。
時序凝寒と雖( いえど )も、終( つい )に陽気を飛灰( ひかい )に回( かえ )す。
粛殺の中に、生々の意あり、常にこれが主となる。
即ちこれ以って天地の心を見るべし。
洪自誠
守屋 洋 (著), 守屋淳 (著)
菜根譚の名言 ベスト100
PHP研究所 (2007/7/14)
P151
真実はつかまえどころのない [哲学]
花は鳥を知るが如く、鳥は花を待つに似たり [哲学]
「いい加減」が大切 [哲学]
「太刀づかいに、強い太刀、弱い太刀というような区別があっていいはずがない。
強く、と思って振る太刀は荒っぽい太刀になる。荒いばかりではかてるものではないのだ。
また、強い太刀といったところで、人を斬るとき無理に強く斬ろうとすれば斬れるものではない。試し斬りなどのときでも、強く斬ろうとすればうまくゆかないものである。
敵と斬りあうとき、これは強く斬ってやろうとか、これは弱くなどと思うはずがないではないか。ただ敵を斬り殺そうと思うばかりであって、強くとか弱くとかは考えない。
敵が死ぬようにと、これだけを思うのである」
(他流において強みの太刀ということ)
奈良本 辰也 (著)
宮本武蔵 五輪書入門
学習研究社 (2002/11)
P226
四月堂
認識と現実のずれに苦しむ [哲学]
私たちの心と身体は、「認識」と「現実」とが一致していれば、幸せと感じるような仕組みになっています。つまり、自分の都合通りにモノゴトが運べば幸せ、というわけです。
~中略~
実際には、しょっちゅう認識と現実はズレることとなります。認識と現実がズレると、私たちの心と身体はストレスを受けます。この状態が長く続けば心や身体の調子が悪くなります。
私たちはつねに認識と現実のギャップを補正しながら生活しています。
~中略~
これら(住人注;「合理化」、「現実否認」、「投影」、「反動形成」、「補償・代償」、「退行」)の「どんな手を使っても、まずは<自分>を守る」という防衛反応を私たちは無意識に活用しています。一種の適応能力です。
~中略~
どれほどまわりからうらやましがられるような生活をしていても、認識と現実がズレている人は苦しんでいます。
いきなりはじめる仏教生活
釈 徹宗 (著)
バジリコ (2008/4/5)
P29
人間はこわれものだ [哲学]
脳始 [哲学]
P183
しかし人の死の定義が簡単な問題でなかったように、人の生の定義も全く簡単な問題でない。今後必ず次のような論議が立ち上がってくるはずだ。
人の死を、脳の死ぬ時点に置くのならば、論理的な対称性から考えて、人の生は、脳がその機能を開始する時点となる。つまり「脳始」である。
「脳始」論に立てば、明らかに、受精卵はまだ人でない。
~中略~
受精卵およびそれが細胞分裂してできる胚が、脳始以前の、まだ人でない、細胞の塊に過ぎないとみなされるなら、それを再生医療にいくらでも利用しうるからである。
私たちが信奉する最先端科学技術は、実は私たちの寿命を伸ばしているのではない。両側から私たちの生命の時間を縮めているのである。
P187
一体いつヒトはヒトになるのか。日本の民法は「胎児は、相続については、既に生まれたものとみなす」としか規定していない。
福岡 伸一 (著)
ルリボシカミキリの青
文藝春秋 (2010/4/23)
発展しようとする精神の自由 [哲学]
私とは [哲学]
京極 でも、近代的自我って結構堅固ですから、「私は私ななんだから」と言っている人に、「根拠は何?」ときいた時に「だって私なんだもん」と無為な問いかけのループしか起きないでしょう。
そこがちょっと悲しいですね。
私はほんとに私なんだろうかと疑問に思い、そうでないとしたら何なんだろうと考え、やがて私は私でなくたっていいじゃないと思う気持ちが幅をつくる。
「私は私なんだから」と言い続けていると、悪いことをしたくなるかもしれないし、死にたくなるかもしれない。
つまりは行き場がなくなるということですよ。
京極夏彦
玄侑 宗久 (著)
多生の縁―玄侑宗久対談集
文藝春秋 (2007/1/10)
P28
美保の埼
規則は、環境も人心をも変える [哲学]
規則をつくるために、何か不都合なことが起きないために、あるいは危険性を減らすために、効率を良くするために、規則や法律といったものがつくられる。
すると規則があるがために、新しい状況が生まれる。それは、最初に規則が必要となったときの状況とはまったく別のものだ。
また、たとえその規則を廃止しても、規則がなかったときと同じ状況に戻るわけではない。規則は、環境も人心をも変えるのだ。
「漂泊者とその影」
超訳 ニーチェの言葉
白取 春彦 (翻訳)
ディスカヴァー・トゥエンティワン (2010/1/12)
097
旧呉鎮守府司令長官官舎(重文)
考え続けること [哲学]
人間は社会人である以前に自然人であったはず [哲学]
「人間は本来、社会人である以前に自然人であったはずだ」
これが僕の基本姿勢だ。科学技術が発達し、都市化が進み、本体自然なくしては生きてはいけなかったはずの人間が、都市に生まれ自然と接することなく生きていける異常な事態になってしまった。自然と一体だったはずの人間が自然人でなくなったがゆえに叡智を失い、温暖化などの地球破壊行為が行われてきた。叡智とは自然とともに生きてゆくための哲学を有した知識のことをいう。
加藤則芳
季刊 のぼろ vol.3
西日本新聞社 (編集)
西日本新聞社 (2013/12/16)
P74
愛するとは [哲学]
自分をだましてはならない [哲学]
このように、人は自分のはったりを自分で信じるようになることが多い。このような行動を食い止めるか、少なくとも軽減することはできないだろうか?
実権で成績を正確に予想することに報酬を与えても、自己欺瞞
をとり除くことはできなかった。
ずる―嘘とごまかしの行動経済学
ダン アリエリー (著), Dan Ariely (著), 櫻井 祐子 (翻訳)
早川書房 (2012/12/7)
P177
その意識を捨ててしまえ [哲学]
趙州和尚と厳陽尊者とのやりとりである。
厳陽「一物不将来の時いかん」
趙州「放下着」
厳陽「已(すで)に是れ一物不将来、這(こ)の什麼(なに)をか放下せん」
趙州「恁麼(いんも)ならば則ち坦取し去れ」
これで「解った」というならもう完璧だが、一応意訳してみよう。
厳陽「私は一物も持っておらず、心も無一物の状態なのですが、さあてどうしたもんでしょう」
趙州「捨て去ってしまえ」
厳陽「捨てるたって老師、私はもう一物も持っていないって申しあげてるじゃないですか。いったい何を捨てるんですか」
趙州「それなら担いでゆけ」
お解りだろうか。趙州和尚は何を担いでゆけと言ってるのか。
答えは、「一物不将来」という意識なのである。
妄想を払うことは洗濯に似ている。煩悩の汚れを落とすのは大事なことだが、濯ぎこそもっと大事なのである。
「無一物」状態であっても、「無一物」という意識が残っていたら石鹸臭い。それこそ「鼻につく」というものだ。
そんな臭い意識を、担いで帰れと、趙州は言っているのである。
禅的生活
玄侑 宗久 (著)
筑摩書房 (2003/12/9)
P124
生きているほうがいい [哲学]
すべての生き物は、死んでいるよりは生きているほうがよい。人もヘラジカも、マツだってそうだ。
そしてその事実を正しく理解する者は、その命を殺(あや)めるのではなく、むしろ守ろうとするだろう。―「メインの森」
ソロー語録
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(著), 岩政 伸治 (翻訳)
文遊社 (2009/10)
P25
想像するちから [哲学]
チンパンジーはリンゴのみにて生きるにあらず [哲学]
こういう発達検査をしていると、ほかにも面白い発見がある。一つは、積み木を積むということを教えるときに、どう積むかということまでは細かく教えていないにもかかわらず、自発的に角を合わせるということだ。
こうした調整をする行動の発現は、単純な学習理論ででは説明できない。教えていないのに、チンパンジーの側に自律的な目標があるのだろう。
もう一つ、単純な学習理論でうまく説明できないことがある。
検査では、積み木の塔が倒れたところで一回の試行が終了したと定義して、ごほうびとしてリンゴのひとかけらをあげる、というようにする。これは、次々やってもらうための工夫だ。定義によって、塔が倒れたら試行終了だから、「はい」とリンゴ片を与える。そして、ガラガラガラと積み木をかきまぜて「はい、じゃあ積んでみて」と渡す。あるいは、一個ずつ手渡して、「積んでみて」と促すわけだ。
単純な学習理論に従うならば、塔が早く倒れたほうがよい。ごほうびがもらえるわけだから、適当に積んで倒すか、あるいは2個目か3個目で倒してしまった方がいいことになる。
でも、チンパンジーたちはけっしてそうはしない。なんとか高く、高く、積もうとする。そして、もう一個載せたら倒れそうだという時点で積むのをやめる。
だから、積み木を積むという行動では、明らかに「積む」ということ自体に強化力、報酬があって、塔が倒れるのが嫌なのだ、ということがわかる。
想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心
松沢 哲郎 (著)
岩波書店 (2011/2/26)
P136
渡岸寺観音堂2
名利に迷うな [哲学]
[第三十八段] 名利に追いまくられて、静かな暇もなく、一生を苦しめるのは、実に愚かなことである。
財産が沢山あると、身を守るすべがわからない。「財産」は、あやまちを求め、悩みを招く仲介となる。
~中略~
黄金は山に捨て、珠玉は淵に投げるがよい。名利に迷うのは、極めて愚かな人である。
不朽の名を長く後世に残すということこそ、望ましいことにちがいないが、位が高く、身分の尊いのを、必ずしもすぐれた人とはいえない。愚でつまらぬ人間でも、家柄に生まれ、めぐり合わせがよければ、高い位にのぼり、驕りをきわめる者もある。
すぐれたえらい賢人・聖人でも、自分からもとめて、低い位におり、時運に合わないで終わってしまうという場合もまた多い。 それゆえ、ひとえに高位・顕官を望むのも、次に愚かである。
智慧と心ばせとにおいてこそ、世に抜きんでているという誉をも、残したいものであるが、しかしながら、よくよく考えてみると、誉を愛するというのは、世間のよい評判を喜ぶのである。
誉める人間も、そしる人間も、ともにそう長くはこの世に留っていない。それを聞き伝える者もまた、じきに死んでしまう、とすれば、誰にはじ、誰に知ってもらいたいと願っても仕方がない。
(それに)、誉というものは、また、そしりの基になるものだ。
自分が死んだあとに、名が残ったとて、何等の益もない。これを望むのも、次に愚かである。 ~後略
徒然草―現代語訳
吉田 兼好 (著), 川瀬 一馬
講談社 (1971/12)
P207
臼杵石仏