なぜ祈る [宗教]
P84
貴人に向かってはいえないような義に反した言い方で「もしも願いが成就したなら、鳥居を寄進し、社の修復をさせていただきます」と祈願したら、受け入れるかどうか躊躇(ちゅうちょ)する浅ましい神が存在するだろうか。
そういう神はいないと高をくくって非礼なものを奉納し、神を冒瀆(ぼうとく)すれば、いつか神罰を受けるだろう。恐ろしいことだ。「心さえ人としての真(まこと)の道に適っているなら、祈らなくても神が守ってくれる」という意味の北野神社の御神詠(ごしんえい)(心だに まことの道に かなひなば祈らずとても 神やまもらん)もある。
中国に目を転じても、孔子が重病になったとき、弟子の子路(しろ)が祈禱を打診すると、孔子は「私は、自分の行いを正すために普段からずっと祈っている。だから、病気になったからといって改めて祈ったりしない」(丘(きゅう)の禱(いの)ること久し)と答えたと「論語」(術而(じゅつじ)篇)は記している。
※丘(きゅう)の禱(いの)ること久し 孔子の病気が重篤になった。子路は、祈禱をなさいませんかと請うた。
孔子は、「そういう先例があるのか」と尋ねた。「「誄(るい)という昔の詞に天地の神々に祈るとあります」と子路が答えると、孔子は「私は、自分の行いを正すためにずっと祈ってきた。だから、病気のことで祈りたいとは思わない」と答えた。
(子疾(やまい)病(へい)す。子路禱(いの)らんことを請ふ。子曰く、諸(これ)有りや。子路對(こた)へて曰く、之れ有り。誄(るい)に曰く、爾(なんじ)を上下(しょうか)の神秖に禱ると。子曰く、丘の禱ること久し)
P85
礼を欠き義に背く賄賂(わいろ)を、わが国の神々が歓迎するはずもない。神は清浄潔白の源ともいうべき存在なので、神明(しんめい)というのである。
およそ神を信仰するのは、心を清浄にするためだ。ところが、礼に反し義に背くさまざまな願いを胸に抱いて、朝に晩にと神社へ足をはこび、さまざまな賄賂の手段を弄して神に祈る。不浄な思惑で神の清浄を穢(けが)す者がいたら、それこそ紛れもない罪人で、神罰を受けるのがふさわしい。
石田梅岩『都鄙問答』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ14)
石田梅岩 (著), 城島明彦 (翻訳)
致知出版社 (2016/9/29)
石田梅岩『都鄙問答』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ14)
- 出版社/メーカー: 致知出版社
- 発売日: 2016/09/29
- メディア: 単行本
手をあわせる [宗教]
神社仏閣やお墓参りで、あるいは家の仏壇や神棚の前で、私たちは幼い頃から見よう見まねで、折に触れ、手をあわせてきました。また、昇る朝日に合掌するのも、先祖から受け継いできた昔ながらの習慣です。お天道様(太陽)の恵みを身にしみて感じていた先祖たちは、「ありがたい」という気持ちから自然に手をあわせてきたのでしょう。
日本人にあまりにもなじんだ、この手をあわせるという行為には、実は深い意味があります。
右手は仏様や自分以外の人を、左手は自分自身を表します。合掌とは、両者をひとつにあわせることを意味するのです。
神仏に手をあわせる時は、尊い存在と自分がひとつになるように、お墓や仏壇ではご先祖様に寄り添うように・・・・・。そうやって、私たちは感謝と祈りを届けていたのですね。
この美しい習慣を見直してみましょう。
朝は、「今日も一日、元気に過ごせますように」と祈りを込めて、夜寝る時は一日の無事に感謝して、そして食事の前後には「いただきます」「ごちそうさまでした」と、命をくれた食材や作ってくれた人への御礼とともに、力まず、恥ずかしがらず、自然な気持ちで手をあわせてみてください。
ざわざわしていた心がチューニングされ、静かになっていくのを感じるでしょう。
もし仏壇が家にあれば、どうぞその前に座って、ご先祖様にお線香を上げてから合掌してください。もし家に仏壇がない場合は、その場で心を込めて手をあわせる。それだけで十分です。
それでも、心の拠り所となる場所があれば、こんなに心強いことはありません。
怒らない 禅の作法
枡野 俊明 (著)
河出書房新社 (2016/4/6)
P118
正覚を成ずる [宗教]
もっと限定して、もっとはっきりと、どこに仏教徒という仏教生活というものの内容を求むべきであるのか。
ところでこの点に思い及ぶと、私の考えるに、これは仏教生活というものの本質を、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)という名題に置いたらよいと思うのである。
これは正覚(しょうがく)ということであるが、詳しくいうと阿耨多羅三藐三菩提とは無上である。三藐は正に当たり、三菩提は覚というのに当たると言ってよい。~中略~歴史的に言うと、仏が菩提樹下において体験した正覚というのが、仏教を通じて主なる潮流をなしているのである。
~中略~
この正覚というものが、中心思想の流れをなしているのであるが、これさえ調っておれば、仏教の教理というものを―四諦とか十二因縁というようなものを知っておっても、知らなくても仏教生活をなしているところの人であると、こう言い得ることができると思う。これがもっとも肝心要なところなのである。
禅とは何か
鈴木 大拙
角川書店; 改訂版 (1999/03)
P41
禅のすすめ [宗教]
科学というものはまことに結構なものである。~中略~ その点はまことに結構であるが、それと同時に人間がことごとく人形になってしまった。機械になってしまった。
これは私は近代文明の弊害であると思う。機械を使うというと、人間が機械になるのでないことはいうまでもないが、人間はまた妙にそれに使われる。
使うものに使われるというのが、人間社会間の原則であるらしい。人間が機械をこしらえて、いい顔をしている間に、その人間が機械になってしまって、その初めに持っていた独創ということがなくなってしまう。近代はますますひどくなってその幣に堪えぬということになっている。
この幣に陥らざらしめんため、宗教がある。宗教は常に独自の世界を開拓して、そこに創造の世界、自分だけの自分独自の世界を創り出して行くことを教えている。宗教によってのみ、近代機械化の文明からのがれることができると私は思う。~中略~
また、それと同時に、物を離れて物を見る、この機械となっている世界を離れて、別に存在する世界を見る、すなわち物の中にいて物に囚(とら)われぬ習慣をつけておかなければならぬと思う。
朝から晩まで慌ただしい、機械化した生活から一歩退いてその圏外に立って、この世界を見るということができねばならぬ、すなわち座禅をしてみるというだけの余裕ができればならぬと思う。
禅とは何か
鈴木 大拙
角川書店; 改訂版 (1999/03)
P100
薬師如来の本願 [宗教]
飛鳥(あすか)白鳳天平のわが仏教の黎明(れいめい)期には薬師信仰は極めて盛んであった。いな薬師信仰はどんな時代でも病のある限りは不滅であろう。すでに法隆寺の飛鳥の薬師如来像、また薬師寺の白鳳の薬師如来像について述べたが、上古より盛んなこの信仰の本質について考えてみたい。~中略~
薬師とは詳しくいえば薬師瑠璃(るり)光如来と云い、東方浄瑠璃世界の教主である。このみ仏は自ら十二の大願を起こしたことが薬師如来本願経に語られてある。 ~中略~
これによって明らかなように、我々の謂(い)う病気恢復は十二願の一部にすぎず、他にも諸々の現実的救済を願としているが、畢竟(ひっきょう)本願のめざすところは、第四願(住人注;一切衆生をして大乗に安立せしむるの願。))に要約されていると云ってよかろう。
また病を必ずしも肉体的に限定せず、心の迷いや精神の病をふくめてすべてを根源から安穏ならしめんと望んでいるのである。 ~中略~
かかる薬師信仰本来の綜合(そうごう)的面目は、法隆寺の薬師如来、薬師寺金堂の本尊、あるいは香薬師を拝して充分偲(しの)ばるるであろう。利益の一面のみを仏体にあらわに表現するのは後世の堕落ではなかろうか。これがさらに転落すれば邪教的迷信ともなろう。
推古(すいこ)天皇ならびに上宮太子、あるいは天武(てんむ)天皇、聖武天皇、光明皇后の信仰を拝しても明らかなように、決して御一身のみの利益と平安をめざされたものでなく、すべては国民の和と救いのために捧(ささ)げられたところであった。わが大乗の教(おしえ)をはじめて具現されたのは天皇にあらせあれた。天皇信仰という独自のものがわが史上には存在していたのである。
とくに上宮太子が病者貧民の身上を思うて設けた四天王寺四個院のごとき、また光明皇后の悲田施薬院乃至(ないし)施浴の風呂の如(ごと)き、すべて薬師如来の本願を思わする非心の然らしめたところであった。かかる信仰あってはじめて無双の仏体も造顕されたことは既に述べたとおりである。
―昭和十七年冬―
大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P224
「他力」こそ「自力」の母である。 [宗教]
震災と浄土教 [宗教]
宮崎 これは何の実証的な裏付けもない与太話ですが、この震災を経験して、浄土教の成立機序を理解できたような気がしました。まったく文献的根拠はありませんから、理屈の上で自分が納得できた、というだけのお話ですが・・・・。
本来仏教は自力聖道門で、実戦的にも理論的にも完結していたと思います。善因楽果、悪因苦果、個々の行業とそれに応じて各々が受ける果報の因果律。そして、それを超越する悟りというシンプルな体系から始まり、少しずつ複雑化、緻密化していった。
ところが因果線をいかに複数化し、それでも足らずに因果的縁起を相依相待の縁起に展開してみても、なお説明できない重大な問題が残った。
それが大災害や戦乱、飢餓や伝染病などによる大量死です。その死者のなかには、善人もいれば、凡夫もいれば、悪人もいたに違いない。侍もおれば遊女もおったに相違ない。僧侶も貴人も百姓も役人も盗賊もいたろう。それなのに皆等しく、無差別に、文字通り「非業の死」を遂げてしまう。
この場面では仏教の伝統的な業報観は成り立ちません。
かかる事態に対処すべく、各私の行業の如何を問わず、阿弥陀如来の本願に乗じて等しく救われるという信仰が生まれ、同時に「万人が悪人」という思想が生まれた。そうでなくては天災、戦、飢餓、疫病などによる厖大な死者を一挙に救済することができなかったからです。
林田(住人注;林田康順) そうかもしれないですね。ちょうど法然上人がメジャーデビューを果たす大原問答の前年に、鴨長明が「方丈記」の中でおおきく取り上げた元歴大地震(元歴二<一一八五>年七月九日)が起こり甚大な被害が京周辺を襲います。
宮崎 浄土信仰が生まれ、拡がり、根付いた土地や時代には、おそらく大量死を伴う惨事が相次いでいたのではないかと思います。そういう意味では、浄土教は、従来の伝統的な仏教の限界をブレーク・スルーした、と言えると思うのです。
宮崎哲弥 仏教教理問答
宮崎哲弥 (著)
サンガ (2011/12/22)
P243
新約聖書は哲学というより文学 [宗教]
キリスト教に限らず、宗教と呼ばれるほどのものはほとんど例外なく、世のはじまりについての神話をもっているが、そのはじまりに創造の主体として明確に神が登場し、創造ののちも、その神の世界支配がくりかえし強調されるという点で、旧約キリスト教はとびぬけて体系的といえる宗教思想だった。
世界の中心にゆるぎなく位置を占め、世界の隅々にまでにらみをきかせる神ヤハウェの存在が、体系的思考をささえる核となっていた。
くらべていえば、「新約聖書」のイエス・キリストは体系的思考の核にはなりにくい。イエスを神の子と考えようと、人の子と考えようと、そこから世界のすべてが流れてくるその中心としてイエスをイメージするのはむずかしい。この世に人間として生まれ、一人の人間として多くの人びとと交わり、随所で人の心を打つ愛と人格性と思想性を発揮しつつ、受難のうちに短い一生をおえた人物というイメージが強すぎるのだ。~中略~
パスカルの「パンセ」のように、ありのままのイエス・キリストに近づこうとした思想の書もないではないが、その真情あふれるキリスト論は、やはり、哲学的というより、文学的というにふさわしい文章だと言わねばならないように思う。
だから、イエスを哲学的に扱おうとする人びとは、「父なる神―子なる神―聖霊」の三位一体論へと傾いていく。
新しいヘーゲル
長谷川 宏(著)
講談社 (1997/5/20)
P73
仏教徒は慈悲と智慧を思え [宗教]
今回のようにお寺でにお仕事で選択に迷った時、高野山に住んでいた頃あるチベット僧が話してくれたことをよく思い出す。
それは、長く難解な仏教哲学の話の後に語られたシンプルな話だった。
「今日の話は、少し難しい部分があったかもしれません。でも仏教徒として、このふたつのことは、いつも思っていてください。それは慈悲と智慧です。このふたつは、すこぶる大切です。
慈悲とはあらゆる人、命を抱えたすべての存在に愛しく親しい感情を持ち、行動すること。
智恵とは、この世界の本当の姿を知るための認識の力です。そこから”もっといい方法があるんじゃないだろうか”と、いつも考えるんです、あなたの生き方を含めて。慈悲と智慧をいつも思うのであれば、あなたは仏教徒としてスタートすることができるでしょう」
ボクは坊さん。
白川密成 (著)
ミシマ社 (2010/1/28)
P118
釈迦の仏教と大乗仏教 [宗教]
釈迦がインドで仏教を創ったのは今から二五〇〇年くらい前だが、それ以前のインドは、絶対神を認める世界だった。その世界では、様々な神が人々の崇拝の対象として現れたが、やがてそれは、ブラフマンという名の神を頂点とする独特の世界観へと収束していって、釈迦が生まれた頃の時代には、そのブラフマンが、世界最高神としてあがめられていた。そういう宗教世界をバラモン教と呼ぶ。
P141
こういった、バラモン教の権威を否定しようという、あらたな宗教者たちの一群は、一括して「沙門」と呼ばれる。
そして、釈迦こそが、その沙門集団の代表選手なのである。釈迦は、いろいろ考え得る修行の中でも、その方向性を「精神の修練に」一本化した。肉体的な苦痛には意味を認めなかったのだ。したがって、仏教は「ひたすら瞑想する宗教」となったのである。
以上の歴史的経過からみて、仏教は、本質的に絶対者を認めない宗教だということが分かるだろう。
P142
我々を支配したり救ってくれたりする絶対者の存在を認めないということは、「助けてください」と言ってお願いする相手がいないということである。これは大乗仏教国である日本の状況とは全く違う。
佐々木 閑
生物学者と仏教学者 七つの対論
斎藤 成也 (著), 佐々木 閑 (著)
ウェッジ (2009/11)
「自己を考察し、思索する宗教」が仏教 [宗教]
「今日の機械文明は神が創ったのではない。勝れた科学者の知識の然らしめるところである。
しかし、文明を開発したそもそもの張本人である人間そのものについては、科学者は十分に知ろうとはしなかった。
この不注意が人間崩壊と、ひいては文明の危機をもたらしたのである」
(「人間 この未知なるもの」渡部昇一訳・三笠書房刊)近代のすぐれた文明批評家の一人、フランスの医学者アレキシス・カレル
私は、「自己を考察し、思索する宗教」が仏教だと考えます。カレルは”人間の科学”が必要だと言いますが、もっと突っ込んで”自己を科学する”ことが肝要ではないでしょうか。
科学は、対象をすべて経験的に論証し、それを検証しようとする合理的認識を原則とします。
仏教もまた、対象を経験的に認識し証明する方法を採りますが、仏教の場合、まず対象が自己そのものです。主体である自己を対象として経験的に認識するところに、一般の科学的方法とはおのずから別次の経験方法が必要となります。
これは、常識でもうなずけることで、この自分を経験的に認識する方法が、念仏・唱題・座禅・看経(読経)などの実践(修行)です。
松原 泰道 (著)
般若心経入門―276文字が語る人生の知恵
祥伝社 (2003/01)
P301
般若心経入門―276文字が語る人生の知恵 (祥伝社黄金文庫 ま 1-3)
- 作者: 松原 泰道
- 出版社/メーカー: 祥伝社
- 発売日: 2003/01/01
- メディア: 文庫
キリスト教 [宗教]
大澤 キリスト教を理解するときのポイントは、実はユダヤ教があってキリスト教が出てきたということです。
ユダヤ教を一方で否定しつつ、他方で保存し、その上にキリスト教がある。つまり、キリスト教は二段ロケットのような構造になっています。
~中略~
キリスト教の非常に独特なところは、自らが否定し、乗り越えるもの(ユダヤ教)を、自分自身の中に保存し、組み込んでいるところです。
否定的なものとして肯定しているとでもいいましょうか。この点を端的に示している事実は、キリスト教の聖典が、旧約聖書、新約聖書という形で二重になっているということです。
ユダヤ教に対応する部分が旧約聖書であり、イエスの後に付け加わったのが新約聖書です。おもしろいのは、旧約聖書を廃して新約聖書がキリスト教の聖典になっているのではなく、キリスト教の中に、旧約聖書がそのまま残されていることです。
~中略~
イスラム教は、先行するユダヤ教やキリスト教を明らかに前提にしている。ただ、イスラム教の場合には、それらを否定するというよりも、再解釈したうえで、自分の世界の中に取り込んでいます。
だから、聖典も、旧約と新約のように二種類あるのではなく、クルアーン(コーラン)という形で単一なものとして統合されている。
ふしぎなキリスト教
橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著)
講談社 (2011/5/18)
P14
キリスト教徒の理性 [宗教]
橋爪 前略~
キリスト教徒ははじめ、理性のことなんかあまり考えていなかったけど、イスラム経由でアリストテレスをはじめギリシア哲学を受け入れてから、あらためて真剣に考えるようになった。
キリスト教徒は、理性を、宗教的な意味で再解釈したんです。その結論は非常に重要。キリスト教の考え方では、神は世界を創造した。人間も創造した。神にはその設計図があり、意図があるんです。人間が神を理解しようと思うと、神の設計図や神の意図を理解しなければいけません。でも、どうやって?
その可能性を与えるのが、理性なんです。
トマス・アクイナスに、自然法論というのがあります。「神学大全」の、ユダヤ法について書いてある「旧法」の部分をみると、法には「神の法があり、自然法があり、国王の法がある」と書いてある。キリスト教神学の教えるところによれば、法は、神の法/自然法/国王の法(人間のつくった法、制定法のこと)と、階層構造になっている。神の法とは、神が宇宙をつくった設計図のことです。
これは、神の言葉で神の書物に書いてあり、人間は目にできないし、理解することもできない。ただし、一部分であれば、人間も知ることができる。その一部分を、自然法といいます。自然法は、神の法のうち、人間の理性によって発見できる部分です。
立法者は神で、人間はそれを発見するだけ。理性は、人間の精神能力のうち神と同型である部分、具体的には、数学・論理学のことなんです。人間は罪深く、限界があり、神よりずっと劣っているけれど、理性だけは、神の前に出ても恥ずかしくない。
数学の証明や論理の運びは、人間がやっても、神と同じステップを踏む。ゆえに、自然法を発見できる。こう位置づけるのが、キリスト教神学です。
ふしぎなキリスト教
橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著)
講談社 (2011/5/18)
P280
念仏の教え [宗教]
仏教には大事な二つの原理があります。
ひとつは平等ということですね。
仏教はインドで起こったのですが、インドは厳しいカースト社会ですから、このカースト社会を裏づけるヒンズー教が盛んで、人間の平等を説く仏教はインドでは根づかなかった。
もうひとつ大事なのは、悟りを得る、煩悩の世界を超えた生き方ができるということです。
煩悩を超えた、自利利他の世界に生きることができる。
念仏の教えは密教のように悟りを自力によって得るのと違いまして、悟りを他力で得る。阿弥陀さまという極楽浄土の仏さまをお頼みすることによって、他力によって菩提を得る。
これは日本仏教のひとつの大きな流れになっています。
浄土仏教は、特に日本において発展した仏教であるということができると思います。
梅原猛の授業 仏教
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2002/01)
P194
本気度 [宗教]
親鸞 [宗教]
五木 前略~ 親鸞がやったことというのを、日本の長い仏教の歴史、あるいは思想史の流れの中で見ると、やっぱり個人というものを信仰と結びつけた点にあると思うんです。彼が個人の信仰を確立したわけです。
阿弥陀如来信仰には、「われ一人のため」という発想があるでしょう。親鸞は近代に至る前に個人の自我というものを確立したのです。
それまでの宗教というのは、すなわち国家の宗教であり、民衆の信仰であり、村人、職人グループの信心だった。五穀豊穣や鎮護国家といった社会的要請のために使われ、僧侶たちは朝廷から官位をもらって任命されていた国家公務員です。
そういう大きな世界にある宗教勢力というものから離れて、庶民大衆というもののために仏教を模索したのが法然で、親鸞がやったことは、さらに庶民大衆の中の一人ひとり、個々の個人の、個の自覚を切り開いたということだと思います。
親鸞と道元
五木寛之(著),立松和平(著)
祥伝社 (2010/10/26)
P108
戸上神社 内満隆寺
自己調節、自己管理の教え [宗教]
生かされているという心 [宗教]
生かされていることに気づくことです。自然の本当の姿を人間は知らなければなりません。
~中略~
科学を信じる、正しいと言うけれど、人間の幸せを考えて発達した科学が、いま大気汚染や、大変な地球破壊まで引き起こしているでしょう。
どこか間違っているんです。科学が正しかったら、いまはみんな幸せになっているはずなのに、現実はだんだんと生活しにくい世の中になってきているでしょう。
これは本当のことをみんな忘れてしまったからですね。
~中略~
人間の心が変れば、自然も宇宙もすべて変るということもあるんです。
葉室 頼昭 (著)
「神道」のこころ
春秋社 (1997/10/15)
P212
空海 [宗教]
キリスト教の正統 [宗教]
橋爪 前略~ 一神教の特徴は、「人間のもの」と「神のもの」を厳格に区別する。そして、「人間のもの」に権威を認めないことです。
ところが、どうしてもある「解釈」(人間のもの)を下さないと教会が集団としてまとまらなくなる。ではどうする?聖書の編纂はすんでいるし。
そこで考えられたのが、公会議です。 これは、各地の教会の指導的立場の人びと(主教)がみな集まる会議で、キリスト教の正しい教義(ようするに、解釈)はなにかを議論する。そして、結論を出す。
議論が分かれた場合は、多数派が正しいとされ、「正統」になります。少数派は多数派にしたがわないと、「異端」として教会から追放されてしまう。キリスト教会はこれを、何回も何回も繰り返したんですね。
なぜこんなことができるかというと、公会議に、聖霊がはたらいているからです。人間が集まって下した結論(どの解釈が正しいか)でも、解釈を超えたものになる。公会議の決定には、すべての信徒は従わなければならない。これがキリスト教の習慣です。
三位一体説も、そうやって決定された。学説としては問題が多く、有力な反対意見も多かったんですけど、すったもんだの末、三八一年の、第一回コンスタンティノーブル公会議でほぼいまのかたちに決定された。
ふしぎなキリスト教
橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著)
講談社 (2011/5/18)
P248
聖書の読み方 [宗教]
聖書という本を取り上げて、だいたいこういうことが書いてある、という程度のことはいえるとしても、聖書の主張はこうだということはとても難しく、あるいはほとんど不可能なことのように思えます。
まず、聖書は時代も文化もまったく違うところで書かれたものだからです。人はよく聖書に人生訓を見ようとしますが、もともと現代人に向けて書かれたのでも、日常生活の知恵を主題にまとめられたものでもありません。しかも聖書は多くの人々の書いたものをあとから集めて編集したものなので、そもそもそこにひとつのまとまった主張があるかどうかすらわかりません。
しかし、一方で、聖書は有名な古典でもありますから、こんなふうに解釈されてきた、という歴史があります。その解釈は、ひょっとすると聖書に対する誤解なのかもしれませんが、そのような伝統があるのもたしかです。
聖書といって私たちがふつう思い浮かべるのは、たいてい場合、実はこの伝統のことです。しかし、それは、聖書そのものを丁寧に読むこととと必ずしも一致しません。
大城 信哉 (著)
あらすじと解説で『聖書』が一気にわかる本
永岡書店 (2010/4/10)
P253
日蓮 [宗教]
彼(住人注;日蓮)は、法然のように浄土を死後に行くべき遠い国に求めるべきではなく、今われわれがいるこの国がすなわち浄土であると説く。
この世は、がらくたのような汚いものがいっぱいある娑婆であるが、この娑婆世界こそ久遠実成の釈迦、すなわち永遠不滅のお釈迦さんがいらっしゃる浄土であることを日蓮は声高く叫ぶ。
この娑婆世界以外にわれわれの生きるところはない、娑婆を浄土として力いっぱい生きよと日蓮は迷える衆生に命じるのである。
梅原猛、日本仏教をゆく
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2004/7/16)
P159
二河白道(にがびゃくどう) [宗教]
もしお宅にお仏壇があって、本尊の脇に下半身が金色に塗りつぶされている僧侶の図が掛けられてあれば、それが善導(シャンタオ)です。善導は七世紀に活躍した中国浄土仏教の大成者です。法然が全面的に依拠した人です。~中略~
この善導の主著に「観経四帖疏」というのがあって、その中の「散善義」という巻に「二河白道」の比喩が出てきます。
~中略~
大雑把にお話しますと、以下のような構成になっています。
ある人が西に向かおうとしたら、突然目の前が開けて、左手にはすべてを焼き尽くすような火の河、右手には荒れ狂う大波が寄せる水の河であることに気づく。
よく見ればその二つの河が激突している中に 一本の白い道がかすかにある。
まわりには誰もいないし、とてもこの道を歩いていけるとは思えない。立ちすくんでいると、その人に向かって大勢の賊や飢えた猛獣たちが襲ってくる。絶体絶命!ダイハード!(←使い方、間違っている)
前にも進めない、後戻りもできない、立ち止まっていることもできない、死は必定の限界状況である。
どうせ死ぬならこの道を歩もう、そう決心したとき、その人は声を聞く。西のほうからは「来い」、東のほうからは「行け」の声である。
その人はその声に従って、無心でその道を渡る
いきなりはじめる仏教生活
釈 徹宗 (著)
バジリコ (2008/4/5)
P199
経だらにというは文字にあらず [宗教]
「経だらに(梵語で、善法を保ち悪法をさえぎる言句)というは文字にあらず、一切衆生の本心なり。本心を失える人のために、さまざまのたとえをとりて教えて本心をさとらしむなり。文字をまことの経というべからず」
京都に東福寺を開いた聖一国師(聖一国師仮名法話)
松原 泰道 (著)
般若心経入門―276文字が語る人生の知恵
祥伝社 (2003/01)
P102
般若心経入門―276文字が語る人生の知恵 (祥伝社黄金文庫 ま 1-3)
- 作者: 松原 泰道
- 出版社/メーカー: 祥伝社
- 発売日: 2003/01/01
- メディア: 文庫
東大寺戒壇院2
悪魔の誘惑 [宗教]
P98
イエス
悪魔はイエスに言った。「もしあなたが神の子なら、この石にパンになれと命じてみよ」
イエスは答えられた。「「人はパンのみで生きるものにあらず」と書いてある」
すると悪魔はイエスを高みに引き上げ、たちどころに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「あなたにこの国々の繁栄と一切の権力を与えよう。それは私に任されていて、誰でも好きな者に与えることができるからだ。もし私をたたえるならば、これは皆あなたのものだ」 ルカ伝
P99
ブッダ
すると悪魔マーラはブッダに近づいてこう言った。
「尊いお方、あなたこそ世を統(す)べるべきだ。聖なるお方、あなたこそ王となるべきだ」
「悪しき者よ、お前はいったい何をもくろんでそのように言うのか」
「もし尊いお方が山々の王たるヒマラヤを黄金にしようと望み、そのように決意されるならば、ヒマラヤは必ず黄金になりましょう」
ブッダは答えられた。「たとえ黄金に輝く山があったとしても、人ひとりの欲望は満たされない。苦しみの源を知った者が、どうして欲望に屈するだろうか」
そこで悪魔マーラは考えた。「尊いお方はこの私を知っている! 聖なるお方はこの私を知っている!」そして意気消沈し、たちどころに消え失せた。
サンユッタ・ニカーヤ
今枝 由郎 (翻訳), 鈴木 佐知子 (翻訳), 武田 真理子 (翻訳), マーカス・ボーグ
イエスの言葉ブッダの言葉
大東出版社 (2001/10)
悪人正機 [宗教]
~中略~
これはどういうことかというと、いい人というのは、善人というのではなくて、自分は悪かったと自覚していない人です。
自分は悪いことはしていないという人でも、仏は救おうとされるんです。
そして悪人というのは、私が悪うございあましたと目覚める人です。
そういう人があ救われるのは当たり前である。こういう意味なんですね。
だから、いちばん救えないのは、おれは悪いことをしていないんだ。おれは善人だという人が、いちばん救えない。
それは神道の祓いとおなじです。一生祓いつづけて罪・穢が祓われるということと同じです。
自分は悪かった、間違っていた。だから、もっと改めましょうという人は救われる。
葉室 頼昭 (著)
神道 見えないものの力
春秋社 (1999/11)
P24
油注がれた者 [宗教]
古代イスラエルは、士師の時代のあと、王制に移り変わっていきます。初代の王はサウル、二代目はダビデ、三代目の王はソロモンです。しかし何とかまとめきれたのはこの三代のみで、その後、王国はもろくも分裂してしまいます。
~中略~
初代の王サウルは、サムエルという人物に見いだされて王となりました。サムエルは、モーセやヨシュアと同じように神に呼び出され、その意志を伝える役目を負わされた人でした。のちの時代、こういう人は預言者と呼ばれるようになります。
~中略~
聖書はひとつの立場から一度にかかれたものではなく、別々に書かれた古代イスラエルの宗教文書を、あとから編集してまとめたものです。ですから多くの考えが含まれていて、その間には矛盾もあります。
さて、イスラエルの一部族の有力者の息子であったサウルは、あるとき父親のロバが逃げたのを探しにきて、サムエルと出会います。
~中略~
サウルのことを事前に神から聞かされていたサムエルは、彼を認めて、その頭に油を注ぎます。これは、神に選ばれた特別なものであることを示す儀式でした。
のちに救い主が待望されるようになると、これもまた「油注がれた者」と呼ばれるようになります。(この言葉が「メシア」で、これをヘブライ語からギリシャ語に訳したうえで日本語にしたのが「キリスト」です。)
かくしてサウルは民の特別な指導者となりました。
~中略~
こうしてイスラエルは、対等な人間同士の国から王を戴く国へと、確実に変質していくことになります。
大城 信哉 (著)
あらすじと解説で『聖書』が一気にわかる本
永岡書店 (2010/4/10)
P120 旧約聖書
大般若経 [宗教]
「般若心経」のこころ [宗教]
般若心経は、「現実の空しさ、うつろさを徹底して実感せよ(色即是空)、すると、現実に生きる価値と意義が十二分に自覚できる(空即是色)」と教えます。
空しさやうつろさは、しかし、死とか別れのようなくらい場面に感じるとは限りません。
現代の日本のように、経済的に高度の生活がつづくと、「満ち足りている」ことに空しさと不服とを感じるのです。
松原 泰道 (著)
般若心経入門―276文字が語る人生の知恵
祥伝社 (2003/01)
P49
般若心経入門―276文字が語る人生の知恵 (祥伝社黄金文庫 ま 1-3)
- 作者: 松原 泰道
- 出版社/メーカー: 祥伝社
- 発売日: 2003/01/01
- メディア: 文庫
室生寺への道すがら道路わき2
世間虚仮 唯仏是真 [宗教]
「真実不虚」で、思い出されるのが、聖徳太子のご遺言の「世間虚仮 唯仏是真」のお言葉です。
その意味は「人間が住むこの世の中は、無常と無我の移ろいの現象にすぎない。この現象をつらぬく因縁の道理だけが真実である」との教えです。
浄土真宗を開いた親鸞にも、聖徳太子の「世間虚仮 唯仏是真」のこころを受け継いだ「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は よろずのことみなもてそらごとたはごと まことあることなきに ただ念仏のみぞまことにておはします」
(「歎異抄・後序」)があります。
松原 泰道 (著)
般若心経入門―276文字が語る人生の知恵
祥伝社 (2003/01)
P290
般若心経入門―276文字が語る人生の知恵 (祥伝社黄金文庫 ま 1-3)
- 作者: 松原 泰道
- 出版社/メーカー: 祥伝社
- 発売日: 2003/01/01
- メディア: 文庫
法隆寺4