お寺の事情 [見仏]
本堂を背にして四人で山々を眺めた。
「あれ、あの斜面、UFO来たみたいに削れてる」
みうらさんがそう言うと、御住職が照れるように答えた。
「墓地を造ろうと思いまして」
お寺の経営にも様々な問題があるのだろう。
しかしともかく、息子さんが仏教系の大学を出て後継ぎになったことが何よりですねと我々は御住職に話しかけた。
御住職は深くうなずいた。
見仏記ガイドブック
みうらじゅん(著), いとうせいこう(著)
角川書店(角川グループパブリッシング) (2012/10/19)
P102
福岡県粕屋郡篠栗町南蔵院
風情を取るか、システムを取るか [見仏]
べらべらとしゃべりながら歩くうち、三十三間堂に着いた。さっきは引き返した駐車場の中に足を踏み入れる。
バスの数はすこしだけ減っていたが、それにしたって十台以上はあった。
すさまじい人気だなと思いながら、駐車場を抜けて驚いた。大勢の拝観者をさばくための柵とゲート、まさにディズニーランドの入口だった。
とまどいながらゲートをくぐる。堂内に入る前に靴を預けるための、新しい施設が出来ていた。かなり大きなロッカーが沢山並んでいる。
靴を脱いだ途端に、おばちゃんから”はいはい、こっちに入れてください”と迅速な指示を受けた。
これは賛否両論あるだろうな、と思った。風情を取るか、システムを取るか。事はなかなかに難しい。
見仏記ガイドブック
みうらじゅん(著), いとうせいこう(著)
角川書店(角川グループパブリッシング) (2012/10/19)
P58
三十三間堂
神社仏閣に行こう [見仏]
P131
かねがね、日本人の心の源泉とは何かと考えていたので、古寺、名刹(めいさつ)に、いまも生きつづける不思議なエネルギーを体感してみたい、それが「百寺巡礼」のはじまりでした。
寺の庭に立ち、堂宇(どうう)の中にはいり、仏像と対面する。そこにはきっと、日本人の精神や生命に、脈々と流れる魂の原型があるに違いない。それに触れることができるのではないかと思ったのです。
P132
はじめは、不安を感じながらスタートでしたが、お寺を巡るたびに、私の心身が充実してきました。五十代から六十代までの体の不調が、少しずつなくなり、回を追うごとに、気力体力が整ってくる感じがしました。
私は、これは神社仏閣がもつ不思議なエネルギーで癒されたいのだといい、みんなにも巡礼をすすめました。
「信仰心からではなく、ただの物見遊山でもいいから、神社仏閣に行くといいですよ。そこは古来、よい気が流れる、いやしろ地なのだから」と。
百歳人生を生きるヒント
五木 寛之 (著)
日本経済新聞出版社 (2017/12/21)
五木寛之の百寺巡礼第一集 全15巻セット [マーケットプレイスDVDセット商品]
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- メディア: DVD
「天上天下唯我独尊」は決意表明 [見仏]
右手をあげた仏さまは、お釈迦様の誕生の姿をあらわしたもの、
毎年4月8日(お釈迦様の誕生日)には、
この誕生仏に甘茶をかけてお祝いをする花祭りが行われている。
文/小村正孝(浄土宗無量寺)
「天上天下唯我独尊」
生まれたばかりの釈尊(ゴータマ・シッダールタ)が七歩あゆんで語ったとされる言葉だ。
「天上天下」とはこの宇宙、世界。
「唯我独尊」は、自分独りが尊いと読める。
字面のまま解釈すれば、これほどの傲慢さがあろうか、と思われかねない。
仏像探訪 (エイムック 2124)
エイ出版社 (2011/2/17)
P002
求菩提山の千日行 [見仏]
この(住人注;比叡山の回峰に対し、求菩提山は山に籠る)千日行が求菩提山に明治まで続いた理由は、一山に勅願師を置いたということである。勅願師はこの千日行満行をもって任じられたのであった。明治まで、勅願師によって勅宣の護摩が焚かれた。
山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)
P85
山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2023/03/04
- メディア: 単行本
幣切り行事 [見仏]
等覚寺(とがくじ)の祭りは四月一九日である。
ここで最高の見物は、高い松柱を立て、その柱の上で山伏が御幣を切る一場面がある。
松会のクライマックスは、この一瞬である。
それはどういうことかというと、斎庭で行われる田行事、お田植の行事を女性の陰にみたて、高い松柱を男性の陽となぞらえ、松柱の上で切り落とされる御幣を神の御種子とし、一種の交合の世界をリアルに演出したもので、山伏らしい祭りの在り方がここにある。
~中略~
いよいよ幣切り行事になると、これまで御幣は御輿の前に安置されており、これを御田盛一臈(祭りの当務役)が背に負い、葛(かずら)をつたって登ってゆく。ところがこの御幣とは、いわゆる権現である。
権現とは仏の権(かり)の姿で、仏様の意味をもつ。山伏の祭り、また権現の祭りとは神仏習合という二重構造をもち、御輿に仏が乗ったということと、御幣に内在する神は仏であり、また仏が神であるという姿のものである。
~中略~
さて、その御幣が切り落とされた。白い弊紙が空を舞ってひらひら落ちる。その様は、この祭りの最高潮のときで、これは神の世界の陰陽交合を表したものである。そのとき参詣の観衆たちは、大きな拍手を送りどよめく。
斎庭には、お田植行事の中でモミ種が蒔かれるが、これには神の御種子が宿り、観衆はそのモミ種を拾い自家のモミ種に交合して、苗代に蒔く。
秋の実りは、このように神の御種子の交配により、豊穣が約束されるのである。祭の効用は霊験あらたかなものとなって現れる。
山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)
P98
山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2023/03/01
- メディア: 単行本
寺らしい寺 [見仏]
新薬師寺 [見仏]
いまの奈良市街は雑然とした観光地であって、ただ処々(ところどころ)にこうした(住人注;新薬師寺へ向かう高畑の道のような)古さびた面影(おもかげ)を残しているにすぎない。古(いにしえ)の平城京はすでに廃墟(はいきょ)と化して一面の田畑である。古寺をのぞけば、普通の民家で古の姿をとどめているのはまず稀有(けう)と云っていいであろう。
~中略~
なにも好事癖(こうずへき)からではない。高畑の道筋が偶然こんな感想をもたらしたのではあるけれど、根本を考えてみるに、やはり私の不信心のためであるらしい。ひそかな祈りよりも、仏像見物の心の方がまさっていたからであろう。後ほど徒然草(つれづれぐさ)をひらいてみた折、兼好法師の次のような言葉に出会った。
「神仏にも、人の詣(まう)でぬ日、夜まゐりたる、よし。」
―昭和十七年冬―
大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P216
東大寺 [見仏]
P176
天平の美は、正倉院御物と万葉集と仏教美術によって代表されることは周知のところであろうが、とくにこのみ代の仏教を語るものにとっては、聖武天皇ならびに光明皇后の御名は、忘れ難いであろう。東大寺―わけても今日「奈良の大仏」として親しまれている毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)鋳造や、法華滅罪時の建立は御二方の名を不朽ならしめた。
御二方なくしては天平仏教の開花はありえなかったであろう。何故かくも信仰が深かったのだろうか―。
~中略~
すでに仏教はわが国の上層にあまねく行きわたり、また唐との交通も益々繁(しげ)くなったので、優秀な僧侶(そうりょ)や博士やその他様々の専門家が渡来し、皇室に重用されたことはここに一々挙げるまでもない。
とくに隣邦僧侶の、芸文あるいは政治経済にも及ぶ指導力はこの時代一層つよいものがあった。聖武天皇が幼少の頃より、未曽有(みぞう)の「文明開化」の影響のもとに生育されたことは申すまでもなかろう。
しかし御信仰を、ただ外部よりの影響とのみ断ずるのは不当である。まことの信仰は、必ず内奥の苦悩より発する。天平仏教が単に唐文化の模倣であり、東大寺建立が国富の大浪費であるとなすのは正しい見解ではない。 あの豪華荘厳の背景ふかく、ひそかに宿るであろう天皇の信仰をまず考えないわけにはゆかない。
天皇の御生涯(しょうがい)を偲ぶとき、私は一層その感を深くする。小野老朝臣(おののおゆあそん)が「あをによし寧楽(なら)の都は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり」と詠じたように、天平のみ代はたしかに稀有()けう)の黄金時代であったろう。
飛鳥白鳳(あすかはくほう)を通じて興隆し来(きた)った文化の、更なる昂揚(こうよう)があったであろう。だがそういう開花の根底には、必ずしも天国のごとき平和が漂っていたわけではない。
私は日本書紀や続日本紀を読みつつ、後代より慕わるる美しい時代が、その底につねに暗澹(あんたん)とした苦悩を、悪徳の深淵を湛(たた)えているのをみて驚く。
平和とはそもそも何だろう。平和とは内攻した地の創造の日々である。対外的には静謐(せいひつ)であろうと、一歩国内の深部に眼をむけると、そこには相変わらぬ氏族の嫉視と陰謀と争闘があり、煩悩(ぼんのう)にまみれた人間の呻吟(しんぎん)がある。ひそかに流された血のいかに多いことであるか。歴史は私に平和の何ものであるかを教えた。飛鳥のみ代がそうであったし、天平といえどもこの例に洩(も)れない。
そして激烈な信仰や美しい詩歌(しいか)や絢爛(けんらん)たる美術は、すべてこの暗黒を土壌として生育しているようである。
P180
その他日本紀を読むと、この時代には盗賊や殺人や掠奪(りゃくだつ)も多く、人心不安だったことがうかがわれる。~中略~
要するに天平時代は、今日考えられているような平穏の日ではなかった。仏陀(ぶっだ)の教えを真に学び信じた者は、当時の一部上層の人々に限られ、一般国民には未だその感化及ばなかったのである。聖武天皇の御念願はそういう事情から発せられたのである。
私は徒に天平の暗黒面を指摘しているのではない。かかる暗黒の裡(うち)にこそ信仰の光りは輝き出(い)ずるのであり、聖武天皇と光明皇后の信仰も、泥中(でいちゅう)の蓮華(れんげ)のごとく咲き出でたのである。
大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
何か神聖なもの [見仏]
古仏の微笑 [見仏]
P107
古仏の微笑は云うまでもなく慈悲心をあらわしたものにちがいないが、これほど世に至難なものはあるまい。微妙な危機の上に花ひらいたもので、私はいつもはらはらしながら眺めざるをえない。
菩薩は一切衆生をあわれみ救わねばならぬ。だがこの自意識が実に危険なのだ。もし慈悲と救いをあからさまに意識し、おまえ達をあわれみ導いてやるぞと云った思いが微塵でもあったならばどうか。
表情は忽(たちま)ち誇示的になるか、さもなくば媚態(びたい)と化すであろう。大陸や南方の仏像には時々この種の表情がみうけられる。
P111
芸術は常に恐るべき危うさに生きるものだ。この恐怖を自覚したとき、芸術の使徒は宗教の使徒ともならざるをえないだろう。
(住人注;中宮寺菩薩半跏像(寺伝如意輪観音))思惟像の微笑をみていると、そのことがはっきり感じらるる。仏師は実に危いところにいきている。一手のわずかな狂いが、微笑を忽ち醜怪の極へ転落さしてしまうだろう。その一手はいのちがけだ。空前にして絶後なのだ。仏師はおそらく満足というものを知らなかったであろう。
一軀の像を刻むことは、一つの悔恨を残すことだったかもしれぬ。多くの古仏の背後には、どれほど恨みが宿っているか。微笑のために死んだ仏師を私は思わないわけにはゆかない。
P114
微笑を失った菩薩というものは本質的には存在しない。飛鳥仏にみらるる微笑は、白鳳天平(はくほうてんぴょう)となるにしたがって消え去っていくが、これは何故だろうか。 微笑は更に内面化し、菩薩の姿態そのものに弥漫(びまん)して行ったのだと私は思う。
白鳳天平の仏像が次第に人体に近づき、柔軟性を帯びてきたのは、ただ彫刻家意識の発達に由るのみではあるまい。
微笑を肉体化し、菩薩の口辺のみならず全姿に宿すまでに信仰は消化されたのだとみなすべきではなかろうか。
大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
求菩提山の衰退 [見仏]
全国的にみても元禄という時代は、修験道にとって極めて重要な時期で、元禄一一年は山伏の開祖とする役行者の千年忌に当たり、各山々も盛大な法要を行い、本山の法要にも集まった。
求菩提山の本山は京都聖護院であるので、当時座主病中で役僧三名が上洛した。
享保二〇年(一七三五)の領主の御取調べをみると、坊名を全部あげ、「以下百五拾弐戸は享保二十年ノ此迄在の坊中」とあり、坊の増大をみせている。狭い山中にこれだけの山伏が密集し生活をしていることに、今さらながら驚くのである。
近世における修験道は、一応この頃がピーク時代とみてよいのではあるまいか。
山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)
P77
山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2021/10/05
- メディア: 単行本
別所 [見仏]
五木 前略~
比叡山の中には黒谷などの別所というところがあった。比叡山の中にはたくさんのお堂とか院があるわけですが、公の仏教儀式に参加せず、ひっそりと勉学一筋に打ち込んで、叡山の中での出世機構とか官僚的システムから自らはずれた人々の集まる地域が、別所としてあったわけです。比叡山の別所は黒谷で、法然はまずそこに行く。
それとは別に、また大原の別所とか何の別所とかいうのがあって、そこではそういう人たちが、自分たちで群れをつくった。その人たちは宗教官僚システムからはドロップアウトしたわけです。給料をもらえないわけですから、生活は自分たちで賄わなければいけない。それで結局、托鉢をするとか、加持祈祷のようなことをやるとか、いろいろなかたちで民間の人たちの布施を受けることによって生活を支えた。
親鸞と道元
五木寛之(著),立松和平(著)
祥伝社 (2010/10/26)
P132
戸上神社内満隆寺
豊前地方の山伏 [見仏]
率直にいって、中世の豊前地方の山伏は、戦う山伏といった印象を強くいだく。山伏が山武士的なイメージをこれほど滲ませた時代はないであろう。
英彦山などは、強力な武士集団を敵に回して一山をあげ攻防の戦いを繰り広げた。
山は全く灰燼に帰したが、英彦山という力は現在の遺構をみてもわかるように以後またたくまに復興し、その活動の原動力となった山伏の底知れないエネルギーに驚かされる。
山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)
P67
山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2021/07/15
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常在山 如法寺 [見仏]
次のバス停を山内(やまうち)という。山内とは、寺の山内(さんない)という意で、ここはかつての壮大な寺跡があるが、江戸期に禅寺を再興し現在におよんでいるが、山門には創建当時の仁王像が残る.
この仁王像が、平安時代の古像と脚光をあびたのは近年のことであった。
この寺は常在山如法寺(ねほうじ)といい、求菩提山にゆかりをもつ、求菩提山の六峰に数えられた寺である。
如法寺は、如法寺氏(ねほじし)という武将と、その武士団を生んだところでもある。
山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)
P11
山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2021/07/12
- メディア: 単行本
常在山 如法寺
千手観音堂 岩屋山泉水寺 [見仏]
宇島駅から求菩提に行くバスの途中、才尾(さいお)というバス停がある。そこで下車し、二〇分ほど歩くと千手観音堂がある。
千手観音堂は、もと岩屋山泉水寺(いわやさんせんすいじ)といい、平安時代の古い寺の跡である。
寺は岩窟からなり、岩屋山の山号がある。岩壁から二条の霊水がほとばしり、このことから泉水寺の名がある。
収蔵庫には、重文の千手観音像が安置されている。横に不動明王像も安置され、共に平安時代後期の作品である。
千手観音の尊容は優美さをもち、心が洗われる思いがする。寺跡の前には川が流れ、そのせせらぎは都会の喧騒さをわすれさせてくれる。
山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)
P10
山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2021/07/06
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大悲山峰定寺 [見仏]
大悲山峰定寺は古来山伏の行場だったから、峰にも谷にも、よくなめした濃緑の皮革のような葉をもつ石楠花(しゃくなげ)の灌木が、あちこちに群落している。
修験道というのはこの高山植物を好む。石楠花のあるの自生する山には霊気があるという伝承がその世界にあるらしい。
峰定寺は勅願寺だったから、むかしもいまも檀家がない。
むかしは山林があったから何とか維持できた。それでも維新をむかえたころは寺域は荒れ放題で、山門など倒壊寸前だったらしい。
この寺には、歴代、住職がいなかった。山伏の本山である聖護院の別格本山のようになっていて、聖護院門跡が兼務する。
門跡は、江戸期では皇族が頭を剃ってその位置につく。維新でそういう法親王がもとの俗人に戻り、東京へ行ったしまったが、その前後に兼務していた峰定寺の山村のほとんどを売り払ってしまったらしい。
このため、もともと立ち行かない峰定寺が、いよいよ荒廃した。
いまも聖護院門跡がこの寺を兼務していることになっているが、その親元の聖護院そのものが本山を旅館にしたりして四苦八苦しているため、洛北の山中で風化しつつある峰定寺のために援助をするというような甲斐性はとてもないのである。
街道をゆく (4)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P34
英彦山展望台
山伏たちの巣窟地帯 [見仏]
旧豊前路とは、北部九州の瀬戸内に面したところである。福岡県の東部と、大分県の北部からなる。
都市名で言うと、北九州市から宇佐八幡宮の鎮座する宇佐市の間である。
ここが、かつての鎮西修験道とよばれた地域で、山伏たちの巣窟地帯であった。
山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)
P8
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仏さまの数だけ人間の苦しみも多かった [見仏]
大和古寺を巡るにしたがって、私の心に起った憂(うれ)いとはつまりこうだ。代々の祖先が流血の趾(あと)を見て廻るものの不安といったらいいか。何故こんなに多くの仏像が存在するのだろう。三千年のあいだ、諸々の神仏あらわれて、人々の祈りに答え、また美しい祈願の果の姿となって佇立している。
かくも見事な崇高な古仏がたくさん列(なら)んでいて、しかも人間はいつまでも救われぬ存在としてつづいてきた。どちらを向いても仏像の山、万巻の経典である。古来幾百人の聖賢は人間のため道を説き血を流した。
いま我々はその墓場を訪れ、そうかしてこの現世の大苦難を脱(ぬ)けきる道を示し給(たま)えと祈るのであるが、そして素晴らしい啓示や教(おしえ)に接し、日々その言葉を用いるのであるが、苦難は更に倍加し人間は何処へ行くべきかを知らない。古典を受け継ぐことなのか。
はじめ古典はその甘美と夢によって我らを誘うであろう。だが、汝等固有の宿命に殉ぜよという追放の宣言がその最後の言葉となるのではなかろうか。
かくも無数の仏像を祀って、幾千万の人間が祈って、更にまた苦しんで行く。仏さまの数が多いだけ、それだけ人間の苦しみも多かったのであろう。一軀(く)の像、一基の塔、その礎(いしずえ)にはすべて人間の悲痛が白骨と化して埋もれているのであろう。久しい歳月を経た後、大和古寺を巡り、結構な美術品であるだどと見物して歩いているは実に呑気(のんき)なことである。
大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P78
求菩提山の神々 [見仏]
もともと山の信仰とは、古い時代から山を崇拝してきており、山自体を神とした奈良の三輪山は著名である。
また日光の二荒山(ふたらさん)、九州では大宰府の宝満山がそれである。ところで、名もない地方の山ではどうなのか、など考え、これまで丹念に調査してみた。
山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)
P25
山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2020/07/15
- メディア: 単行本
鳥仏師 [見仏]
鳥仏師は決して独創的な仏師ではなかったし、飛鳥時代の代表的彫刻家というような意識で造仏したのでもなかった。
彼は驚くほど誠実に勅願を承(う)け、また太子の御心に服従した人である。御悲願を正しく心にとめて、北魏伝来の形式にそれを刻まんとしたのである。
鳥の偉大さは、彼の全き畏敬(いけい)と服従にあると私は思っている。
像においてはひたすら先人の作を模倣した。厳格に一つの手本を学び、自己の何ものをもつけ加えようとしなかった。彼はただ御悲願の完璧に盛られることを念じつつ創(つく)ったのであって、あらゆる点で絶対服従のみが彼の最大美徳だったのである。
P87
これによって明らかなように、鳥は帰化人司馬達らの孫にあたるが、祖父より代々朝廷に仕えて仏法のためにつくした家柄である。
~中略~
金堂の釈迦像もかような心情を無視しては真に解することは出来ないであろう。推古天皇と上宮太子、及び鳥仏師との間の信仰に結ばれた君臣の情が、あの無比の畏敬となってあらわれたのであろう。しかし、釈迦像には感傷的な何もない。おそらく鳥の、「私」を滅却した全き帰依が然らしめたのである。
―昭和十七年秋―
大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P85
仏像における彫刻性あるいは写実性とは [見仏]
美的関心あるいは様式技術論のみをもって仏像に対することの不可は、誰しも一応認むるのであるが、悲願を体得するという困難のゆえに、つい我々は美術品としてのみこれをあげつらい易(やす)い。そこに一見学問的にしてしかも無意味な比較研究が起る。
白鳳天平(はくほうてんぴょう)の諸仏に比して、飛鳥仏の稚拙と固定性は美術家のすべてが論ずるところである。~中略~
しかし私は仏像における彫刻性あるいは写実性とは何か―今日美術家の説くところに対して多大の疑問をもつ。白鳳天平となれば、仏像は完全に立体性をもち、つまりは人体に近くなる。人体に近いほど我々に親しさをもたらすのも事実である。飛鳥の釈迦像よりも天平の聖観音の方が我々を喜ばしてくれる。
更に三月堂や戒壇院の四天王像となれば益々面白い。
この面白さとは、結局彫刻としての面白さであり、そこに写実性乃至(ないし)人間性に立脚する古美術論が成立つ。
これに接したときの我々の情感も、体軀の柔軟なくねりに応じて自由になるように思われる。これは仏像の進歩というものなのだろうか。信仰の発展というものなのだろうか。
だが私は最も始源の意味に―即ち第一義の道に還(かえ)りたい。仏師が仏を彫る所以(ゆえん)のものは、さきに述べた人間の悲願に発するのである。まずその根本へ還りたい。
写実といったときの「実」とは即ち「仏」であって「像」ではない。仏像とは彫刻ではなく、一挙にただ仏である。これは大事な根本でなかろうか。
然(しか)るに現在用いられている写実という言葉は、人間性と聯関(れんかん)した、言わば人間の「実」を写すという意味が非常につよい。
人間の「実」を求めて、遂にそれを超えた仏の「実」に達したところを見るならば私も一応納得するけれど、古人が「仏」の「実」として写したものを、人体にひきおろして鑑賞する態度は果たして正しいだろうか。
「私」の美的恣意(しい)に基く鑑賞によって仏像を解しうるだろうか。信仰の上から云って冒瀆(ぼうとく)であるのみならず、あらゆる点から云ってそれは虚偽ではなかろうか。造仏本来の意味に反する。現代の古美術論の多くはこの虚偽の上に成り立っているように思われてならない。
大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P83
不空羂索観音 [見仏]
大仏殿の前をよぎって手向山(たむけやま)八幡宮への坂路を登って行くと、その中腹を左へ入ったところに有名な三月堂がある。この辺は杉の大樹が鬱蒼(うっそう)とそびえていて、同じ東大寺の境内でも底冷えがするほど涼しい。~中略~
周知のごとく、東大寺を襲った幾たびかの災禍を免れて、いまになお天平の(てんぴょう)の姿をとどめる唯一(ゆいいつ)の御堂である。~中略~
そして不空羂索観音はこの御堂の本尊であり、天平隨一の傑作といわるるみ仏である。
私はこのみ仏を拝するたびに、いつもその合掌の強烈さに驚く。須弥壇(しゅみだん)上に立つ堂々一丈二尺の威軀(いく)は実に荘厳であり、力が充実しており、また仄(ほの)暗い天井のあたりに仰がれる尊貌(そんぼう)は沈痛を極めている。慈悲の暖かさも悟達の静けさもみられない。
口を堅くむすんで何かに耐えている悲壮な表情である。~中略~
飛鳥仏(あすかぶつ)にみられる微笑は全く消え去っている。白鳳(はくほう)の温容もない。むしろ受難の相貌(そうぼう)と云ってもいいものがうかがわれる。私には、このみ仏が身をもって天平の深淵(しんえん)を語っているように思われる。何に耐え、何を念じているのだろうか。
当今の古美術研究家はこの大事について何事も語ってくれない。美術の様式論をもって仏像を鑑賞するという当世流行の態度が、一切を誤ったと云えないだろうか。
仏像は彫刻ではない。仏像は仏である。仏像を語るとは、仏を語るという至難の業(わざ)である。そこには仏の本願のみならず、これを創(つく)り、祀(まつ)り、いのちを傾けて念じた古人の魂がこもっている筈(はず)だ。それに通ずるためには我々もまた祖先のごとく、伏して祈る以外にないであろう。
この祈りの深まるにつれて、仏像は内奥(ないおう)に宿る固有の運命を、悲願を、我々に告げるのであろう。この唯一の根本が忘れ去られたところに、現代の古美術論が成立っている。 大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P202
信仰か鑑賞か [見仏]
フェノロサがこの観音(住人注;夢殿の久世観音)の白布を解くとき寺僧達が逃げ去ったというが、逃げ去った寺僧の方にも道理はある。
フェノロサがいかに立派な美術史家であり、久世観音に驚嘆の声を放ったにしても、この秘仏の真の無気味さについては、一介の寺僧ほどにも通じていたとはいえまい。
すべての秘仏にふれるには、あつかましさが必要かもしれない。あつかましさの故に、今は我々も拝観料を払って見物しうるのかもしれぬ。
大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P35
光明皇后 [見仏]
P183
光明皇后の御生涯は、かくのごとく聖武天皇と信仰をともにされた美しい生涯であったが、しかし皇后もまた帝にもまして時の苦悩を負われた方であった。前にちょっとふれたように、光明皇后は不比等と橘三千代とのあいだにお生まれになったのだが、この橘三千代は天平の背後に躍った稀代(きだい)の辣腕(らつわん)家であった。血族国家において女権の伸長するのは、とくに女帝のみ代において甚だしい。
P184
光明皇后はこの辣腕の夫人を母として生まれたのである。神亀(じんき)元年三月御年十六歳のとき光明子として聖武天皇の妃となられ、天平元年八月に皇后として立たれた。臣下の姫にして皇后となるのは稀有であり、まして不比等一族の背景をあることを思えば、当時群臣に与えた衝撃の大きかったことは云うまでもない。 ~中略~
若く美しい妃として、群卿(ぐんけい)に臨まれ、つねに優雅な振舞いをもって接したもうたことが推察される。
母君たる三千代夫人にも無心の孝養をつくされたであろう。しかも一方において、ご自身に注がれる羨望(せんぼう)と反感の眼をも、鋭敏な御心は必ずや感じておられたに相違ない。
皇后に関する伝説はすべて熱烈な信仰を物語っているが、血につながる一切のものの罪禍を、自らそれとなく悟られ、観無量寿経の韋提希(いだいけ)夫人のように仏前に祈られたのではなかろうか。 ともあれ光明皇后は、女性の身として、時の最も苦しい立場に立たれたことは歴史をみるとき明らかである。
大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
唐招提寺 [見仏]
法隆寺や薬師寺や東大寺に比べると格式もちがうし由緒(ゆいしょ)も深いとはいえない。しかし唐招提寺には他のどんな古寺にもない独特の美しさがある。伽藍配置のかもしだす。整然たる調和の美しさであって、私はそれをみたいためにやってくるのだ。
奈良朝の建築の精華はここにほぼ完ぺきな姿で残っていると云(い)ってもよかろう。
大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P163
大和古寺の塔 [見仏]
大和古寺には様々な塔がある。法隆寺の塔の持つ巍然(ぎぜん)たる威容は、上宮太子の御人格そのままと申していいほど立派なものである。
鳥仏師の釈迦(しゃか)三尊にみられるような、絶対帰依(きえ)に由(よ)る厳格さを偲(しの)んでもよかろう。
また法起寺と法輪寺の三重塔は飛鳥の小仏のごとく古僕(こぼく)で可憐な一面を持つ。二上山を背景に、中腹に立つ当麻寺の東西両塔の典雅な有様、あるいは室生寺(むろうじ)の大杉の間に立つ五重塔の華麗な姿も忘れられない。
しかし私は結局、薬師寺の東塔に最も関心するのである。~中略~ 西塔はすでに崩壊して、わずかに土壇(どだん)と礎(いしずえ)を残すのみであるが、東塔はよく千二百年の風雨に耐えて、白鳳の壮麗をいまに伝えている。
某という僧が定(じょう)に入って夢みた竜宮の塔を、うつつに現出したものといわれるが、かような様式はわが国にも唯(ただ)一つこの東塔あるのみ。
―昭和十七年秋―
大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P160
百済観音 [見仏]
正直なところ、私は仏像にどうしても親しみえなかったのである。その主な理由は、仏像は人間を行為に誘う溌剌(はつらつ)たる魅力にとぼしいということであった。
仏像に対していると、彼は自らは語らず、私にのみ多くを語らせようと欲する。
私は自分の生存について、環境について、苦悩について、限りなく彼に訴え問うことが出来るが、仏像の表情は何事も答えない。半眼をみひらいたこのものは、人をみているのか、人の背後の漠々(ばくばく)たる空間をみているのか不分明である。人間を無視したような腹だたしいまでの沈黙が私を疎遠(そえん)にさせた。
~中略~
奈良へ来てはじめてわかったことであるが、自分のこの感じは主として座像に関係していたようである。はじめどのような座像にも心をひかれなかった。殊(こと)に巨大であればあるほど。
わけても法隆寺金堂に佇立(ちょりつ)する百済観音は、仏像に対する自分の偏見を一挙にふきとばしてくれた。このみ仏の導きによって、私は一歩一歩多くの古仏にふれて行くことが出来たと云(い)ってもいい。
~中略~
仄暗い堂内に、その白味がかった体軀が焔(ほのお)のように真直ぐ立っているのをみた刹那(せつな)、観察よりもまず合掌したい気持になる。大地から燃えあがった永遠の焔のようであった。
人間像というよりも人間塔―いのちの火の生動している塔であった。胸にも胴体にも四肢(しし)にも写実的なふくらみというものはない。筋肉もむろんない。しかしそれらっすべてを通った彼岸の、イデアリスティックな体軀、人間の最も美しい夢と云っていいか。~中略~
これを仰いでいると、遠く飛鳥(あすか)の世に、はじめて仏道にふれ信仰を求めようとした人々の清らかな直(す)ぐな憧憬(どうけい)を感じる。
大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P56
博物館 [見仏]
僕は近頃、博物館について益々(ますます)疑惑を抱くようになった。便利といえばこれほど便利なものはない。僅(わず)かの時間で尊い遺品の数々に接することが出来る。しかし僕らは博物館の中で、何かしら不幸ではないか。東京の国立博物館でも、奈良博物館でも、法隆寺宝蔵殿でも、ふっと空虚な寂(さび)しさを感ずることがある。病院の廊下を歩いているような淋しさだ。
僕ははじめそれが何に由来するかわからなかった。古仏が本来その在るべき仏殿から離れて、美術品としてガラスのケースに幽閉された時の淋しさはむろんである。
だがケースに陳列してそれほど不自然に見えない筈の工芸品にしても、博物館にあると急に白々しくなる。
この空虚とは何か。寂しさとは何か。僕は近頃になって、それが愛情の分散であることにはっきり思い当った。
つまり博物館とは、愛情の分散を強(し)いるようにつくられた近代の不幸なのではなかろうか。
大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P49
目次 見仏 [見仏]
見仏
- 見仏
- 神社仏閣に行こう
- 信仰か鑑賞か
- 仏像における彫刻性あるいは写実性とは
- 解像力
- 何を見るにしても、ある時間と手つづきが要る
- 土門拳 古寺を訪ねて
- 写真を撮るのは格闘技である
- 平成 仏像ブーム
- 何か神聖なもの
- 寺らしい寺
- 風情を取るか、システムを取るか
- 博物館
- 律院
- 別所
- 仏さまの数だけ人間の苦しみも多かった
- 新しい時代を望む弥勒菩薩
- 虚空蔵菩薩
- 不動明王
- 愛染明王
- 邪鬼
- 修業験得
- 「天上天下唯我独尊」は決意表明
- 仏像
- 丹霞焼仏
- 鳥仏師
- 円空
- 大悲山峰定寺
- 比叡山
- 泉涌寺
- 奈良
- 東大寺
- 唐招提寺
- 大和古寺の塔
- 大野寺磨崖仏弥勒菩薩立像
- 室生寺
- 古仏の微笑
- 薬師寺院堂聖観音
- 中宮寺菩薩半跏像(寺伝如意輪観音)
- 救世観音像
- 百済観音
- 南円堂
- 光明皇后
- 新薬師寺
- 須磨寺
- 三徳山三仏寺投入堂
- 山伏たちの巣窟地帯
- 千手観音堂 岩屋山泉水寺
- 常在山 如法寺
- 豊前地方の山伏
- 求菩提山の千日行
- 求菩提山の神々
- 幣切り行事
- 臼杵