朝鮮鐘 [雑学]
朝鮮鐘は西日本に多く、北限は佐渡の長安寺で、東北地方にはない。関東では鶴ヶ岡八幡宮、それに李朝十六代仁祖(在位一六二三~四九)が徳川幕府に贈った鐘が、日光東照宮にある。
仁祖は、三代将軍家光とほぼその在位の時期を同じくしている。この王の在位時代は多難であった。豊臣政権がやった朝鮮侵略の疲弊がまだ癒えず、一方、中国における明末の兵乱が朝鮮に艱難をもたらし、次いで新興の清が圧迫をかさねて、国家の存立がしばしば危うかった。
この仁祖にとっては、海をへだてた倭国が徳川体制下にあって徹底的な鎖国方針をとっていることが、せめてもの安堵であったであろう。
仁祖は、日本国の主権者である徳川の大君(将軍)に好意をもたざるを得ず、そのしるしとして鐘を鋳て贈ったのである。
「山陰、山陽には多いですね。出雲では、松江の天倫寺の鐘、これは高麗中期のものです。安来の雲樹寺には高麗初期の鐘があります」
石段を登りながら李進煕氏は言い、話を李朝十六代仁祖にもどして、
「仁祖は、家康・秀忠の外交方針を多としておりましたが、これが李朝を通じて徳川幕府への基本的な態度になったのです。くだって、日本の維新早々、朝鮮が明治新政権に対してとった硬い態度は、徳川幕府への仁義というものなのです」
と、低い声でいった。
そういえば、李朝外交にはその種の仁義があり、明がたおれるときも、李朝内部に明への仁義をつくそうという気分がつよく、新興の清に対して態度が硬かった。
街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P249
街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P272
タグ:司馬 遼太郎
コメント 0