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十牛図 [宗教]

  (住人注;十牛図頌は)禅の修行の段階を牛と牧童に喩えて巧みに図解したものであって、宗の廓庵師達が考え出したものである。
悟道を牛にたとえ、牛を探ねる童子―求道者を表わす―が山中を逍遥する所から始まり、十図を作って、禅の最後の究竟の境地を示そうと企てたものである。ここに簡単に十牛図の一々を証明してみよう。

 一、尋牛 一童子が牛をもとめて山中をさまよう姿を表わすもので、童子は牛を捉えた時の用意に綱と鞭とを持っているが、山中をいくら歩いても牛は見つからない様が描かれている。これは悟りを得ようといろいろ修行を始めたが、何が悟りかわからず、苦心惨胆しながら暗中模索をすることを示したものである。
 二、見跡 童子はあてもなく山中を逍遥する時、突如として一道路上に牛の足跡を発見した。それでこの跡を進めば牛を捕捉することが出来るのに気がついた。即ち漸く悟道への曙光をおぼつかないままつかむことができたのにたとえたものである。
 三、見牛 彼は牛の足跡をたどって山道を進むと遂に本当の牛の姿を見ることが出来た。岩角から牛の尻だけが見える所が描かれている。いよいよ悟道に近づきつつあることを示したものである。
 四、得牛 牛の姿を見た彼はその次に遂に待望の牛を捕えることが出来た。しかし牛は野性を発揮して従順でなく、出来れば彼の手から逃れようとあばれる。これは悟道を得たが、はたしてそれが真であるかどうか心中甚だ不安で落ちつかない有様をたとえたものである。
 五、牧牛 牛は漸く馴れて自由自在に牧することが出来るようになった。
絵は牧童が牛の綱を取り歩むと牛はおとなしくその後から随って来る所を表わしている。。身に修練を離れず、悟りに入ってのちの調心にたとえたものである。そろそろ一人前の禅僧となった。
 六、騎牛帰家(きぎゅうきか) 彼は手綱をはなして牛の背に騎り、村歌をうたったり、笛を吹いたりして家に帰る所を表わしたものである。情操妄想の羈絆を脱し、本具の心牛に騎って、自己本来の家郷に帰るのにたとえたものである。信仰として安定した所に到達した心境である。禅僧はよくこの絵を描いている。
 七、忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) 彼は牛に騎って家に帰ったが、家に帰ると苦心して捕えた牛を忘れ、唯自己だけが存在することに気がついた。家には彼独りねむる所が描かれている。自分の外に牛がいるものと思い、懸命にその牛を捕えることに努力したが、捉えて見れば牛は自分の心の中にあるもので、外部に索めるべきものではなかったことに気がついた。即ち本覚無為の家に帰れば修練の要もなく、求めた牛もまた必要なく、ただ無事安閑であるだけが本来の面目であることをたとえたものである。
 八、人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) 彼は前項で牛を忘れたが、さらに考えると自己もまた忘れるに至った。即ち万物は一切空であり無であることを示したもので、自分があると思うことすら迷いであるという。絵はただ円相だけを描いて、何者をも表していない白紙のままである。九、返本還源(へんぽんかんげん) 自己の本心は本来清浄であって、煩悩妄念など一切なく、春が来れば百花爛漫とし、秋が至れば万山紅葉するように、目前のこの世界、即ち諸法実相であることを説いたものである。一塵も一埃もとめない山水画や花鳥図を描いている。
一〇、入鄽垂手(にゅうかくすいしゅ(住人注;にってんすいしゅ)) 彼はさらに進んで利他を志し、慈悲の手を垂れて衆生済度のために市井の塵境に入ることを示したもので、絵は多くの場合布袋が腹を出して大道を歩み、唐児と遊ぶ様が描かれている。

続 仏像―心とかたち
望月 信成 (著)
NHK出版 (1965/10)
P192




伊勢神宮 内宮 (71).JPG伊勢神宮 内宮

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