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共生する作法 [社会]

 例えば、「弱者を支援する」という事業ですけれど、これは強者であったり、標準的な人間であったりする「私」が、同じ集団内にいる「弱者」に対して、善意を以て支援の手を差し伸べるという発想をしている限り、長続きしません。
弱者に対する支援というのは、集団の維持のために絶対に必要なものであり、とりわけ集団が危機的状況に陥ったときに最優先的に果たさなければいけないことなんですけれど、そういう集団の存亡にかかわるような重大事を個人の善意や雅量や想像力や思いやりなどに依存していたのでは、集団は一瞬で吹っ飛んでしまいます。
相互支援、相互扶助あるいは他者との共生、弱者の支援はもっと強靭な社会的基盤の上に基礎づけなければいけない。その基盤が整備されていなければ、共同体は保てない。でも、そういう発想をする人は今の日本にはほとんどいない。

最終講義 生き延びるための七講
内田 樹 (著)
文藝春秋 (2015/6/10)
P312

DSC_4843 (Small).JPG英彦山

P321
 中東やアフリカでは国内で戦争があるたびに、大量の難民が出て、国境近くに難民キャンプができます。家を失った人たちが難民キャンプに集まり、国連や隣国からの支援を受けてかろうじて暮らしている。この難民キャンプで一体どういう社会活動が行われるか、それを考えてみてください。
たぶん一番最初にできるのは「弔いの場」です。キャンプの住人たちに死者が出るたびに、彼らを埋葬しなければならない。まず死者たちの場を作る。これはたぶんどんな社会的活動よりも優先的に行なわれるはずです。そこで、死者たちの鎮魂のための祈りが献(ささ)げられる。必ず「祈り」が行われます。
誰かがその「祈り」を主宰することを要請される。どのような難民キャンプでも、お互いに知らない者同士がそこで初めて出会ったばかりであっても、最初に「祈りの場が」が立ち上がります。
 それから、難民同士のトラブルを裁定する場ができます。両者の言い分をそれぞれ聞いて、いずれに理があるか判定をくだす「裁きの場」です。人々の中でとくに人望のある人、実力のある人が「裁き人」に推挙されます。 裁定に異論があっても、「あの人が言うんだから、聞くしかない」と思われるような人しかこの任に就くことができません。
「裁き人」と「祈る人」は古代社会ではしばしば重複していました。長老や族長や賢者がその任に当たった。「祈りの場」と「裁きの場」によって社会秩序の基本のかたちが整います。
 そして、当然ながら「医療の場」があります。怪我人や病人は放置しておくわけにはゆきません。必ず集団全体としてそれを支えなければならない。
怪我人や病人は社会的能力が低いのだから、足手まといになる。だから、その辺に転がしておいて、野垂れ死にしてもしかたがない。そういうふうに考える人も中にはいるかも知れません。けれども、そうやって怪我人や病人や妊婦や幼児や老人をどんどん切り捨てて、強者だけの集団を作ろうとすれば、遅くとも一世代後には集団として消滅してしまいます。社会的能力が落ちるたびに一人ずつ見捨てられるてゆくわけですから、だから、どんなことがあっても社会的能力が標準以下の人たちのための「癒し場」がなければならない。
 そして、四番目にできるのが「学校」です。どんな難民キャンプでも、とりあえず衣食住が満たされると、誰かがその辺に黒板のようなものを立てて、子どもたちを集めて、青空の下で「授業をやりましょう」と言いだす。~中略~
誰が指名するわけでもないし、誰が給料を払うわけでもない。「私が教えます」と言って手を挙げた人が教え始める。そこに子どもたちは集まってくる。別に強制されなくても「学びたい」と言って集まってくる。

P337
 僕たちが営んでいるすべての社会活動は、つきつめてみれば、個人のものではありません。集団が主体となって行っているものです。そして、その集団は成員として、今ここで同時代に同じ集団を形成しているメンバーだけではなく、もういなくなってしまった人も、まだ加わっていない人も含んでいる。でも、そういうふうに社会制度や組織について考える習慣を僕たちは久しく忘れ去っていたのでした。

最終講義 生き延びるための七講
内田 樹 (著)
文藝春秋 (2015/6/10)
P312

 


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