言葉の重み [言葉]
石原慎太郎東京都知事が「天罰」だと言った。「日本人のアイデンティティは我欲。この津波をうまく利用して我欲を一回洗い落す必要がある。やっぱり天罰だと思う」。
年をとっても口の減らない人だが、「上から目線」も相変わらずだ。無責任といえばそれまでだが、一一年前の彼の発言を思い出す。
二〇〇〇年四月二六日、彼は日本原子力産業会議の年次大会で講演し、「東京湾に原発を造っても構わない」と言った。「東京湾に造ったっていいくらい日本の原発は安全だ」とも言った。ならば、そうすればいい。
~中略~
石原都知事も、その「安全神話」の語彙の貧しさが空虚でないというなら、その言葉の中心に全体重をのせて選挙に四選出馬をするというなら、みずから原発東京湾立地を選挙の争点にして都民に賛否を問うてみたらいい。
ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」とは、その言葉の中心の無自覚という虚しさのことだ。
世界 2011年 05月号
岩波書店; 月刊版 (2011/4/8)
P236
龍蔵寺
そうではない言葉もある。
三陸に限らず東北一帯には、いまもアイヌ語の片鱗が残る。
アイヌ語で「考える」という意味の「ヤイコシラム(ムは小文字)スイェ」は「心を揺らす」ことだ。また、「みやげ」とは、「ミアンゲ」という。身をあげる、神々や他者にわが身を差しあげる、全身と全体重をのせた思いやりや心づくしも言葉ではないだろうか。
なのに、それはさりげなく聞こえる。
助男(住人注;筆者の幼なじみ)が言う「まま食ってきたか?」「まま食っていけ」という言葉づかいにも、何かしら重たい堆積が濾過されたのちに澄んだ、さり気なさを感じる
幸ひ思ひ出立申すべし
簾内敬司 (作家)
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