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ブッダの教えは宗教ではない [宗教]

  あるときブッダに感銘を受けたひとりのバラモン司祭がかれに「バラモン教をやめるので弟子にしてほしい」と頼んだことがあります。
それに対するブッダの答えは、筆者には素晴らしいものに映ります。

「君はバラモンの司祭として信者の人々に儀式をあげる宗教の仕事をしている。
仕事を投げ出して私のところにきたら無責任だろう。君は今のまま仕事をつづけて、休みのときは私に瞑想を習いにくればいい」と。

 ここからは、ブッダに教わるために、他の宗教を否定する必要はないのだということが読みとれることでしょう。
そしてここでブッダは間接的に、自分の教えているのは宗教ではないということを言っているように思われます。

超訳 ブッダの言葉
小池 龍之介 (著)
ディスカヴァー・トゥエンティワン (2011/2/20)
 

DSC_6352 (Small).JPG大迫石仏

 ブッダの教えが「宗教」であるならば、それを実践するのに他の宗教は邪魔になります。なぜなら宗教とは「これのみが正しい」と言い張るものなのですから。
 ところがかれが教えているのは心を操縦するための心理学とトレーニング・メソッド。
それは宗教としての色彩を持たないために、バラモン教徒だろうとジャイナ教徒だろうとイスラム教徒だろうと、誰だって活用することができるのです。
小池 龍之介

P4
 もともと、ブッダの教えとは「心のムダな反応を止めることで、いっさいの悩み・苦しみを抜ける方法」のことです。その内容とは大きく二つ―①心の反応を見ること、②合理的に考えること、です。
「心の反応を見る」(①)とは、おなじみの「座禅」や、最近よく聞くマインドフルネスやヴィバッツサナー瞑想のこと。面白いことに、心の反応・心の動きをよく見れば、ザワついた心は静かになります。これは、ストレス解消、気分転換にもってこいの方法です。
 ~中略~
 また「合理的に考える」(②)とは、目的がかなうよう、筋を通して考えること。この本での私たちの目的は、「ムダに反応しない」「悩みを増やさない」こrとです。~中略~
 原始仏教には、多くの人が「仏教」という言葉から連想するような”宗教”的な内容とはまったく異なる、実用的で、合理的な、現代にも使える「考え方」があふれています。

P47
”ブッダ”とは、「正しい理解をきわめた人」という意味です。「目覚めた人」「覚者(かくしゃ)」とも呼ばれています。
 ここは仏教に興味がない人にも大切なポイントになるのでお伝えしておきますが、「正しい理解」とは、「自分が正しいと考える」ことではありません。「自分流の見方・考え方で理解する」ことではありません。
 むしろ逆に、「自分はこう考える」という判断や、解釈や、ものの見方をいっさい差し引いて、「ある」ものを「ある」とだけ、ありのままに、客観的に、主観抜きの”ニュートラル”な目で、物事を見すえることを意味しています。
「正しい理解」に「反応」はありません。ただ見ているだけです。動揺しない。何も考えない。じっと見つめているだけです。そういう徹底したクリアな心で、自分を、相手を、世界を理解することを、「正しい理解」と表現しています。

反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」
草薙龍瞬 (著)
KADOKAWA/中経出版 (2015/7/31)


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