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大名は、植木 [雑学]

 会津藩はこの当時、日本最強の武士団という評判があったが、しかしこれはあくまでも武士階級だけのことで、のち、会津若松城の攻防戦のとき、領民はこの武士たちの戦いを冷淡に見ていたばかりか、官軍に協力し藩軍の様子を通報する者もいた。
おなじ戊辰戦争のときの越後長岡藩の戦いもそうで、領民は傍観していた。
領民をもって藩の防衛力をつくるなどとてもできるものではないほど、両者のあいだは断絶している。どの藩も、江戸期を通じ、徳川家の大名対策によって転封やら移封やらさせられており、
「大名は、植木」
 とまでいわれていた。大名という植木をひき抜いて、他の鉢―領土領民―へ植えかえるということをやっており、このため藩と領民の一体感というものはない。
 地生(じば)えの大名というのは長州藩のほかに、仙台伊達家、薩摩藩島津家、津軽藩、南部藩などがあるが、これらのどの藩でも、
「諸隊」
 をつくるなどは不可能であった。この四藩は武士階級の優越意識が、長州藩とはくらべものにならぬほどに強烈で、武士からみれば百姓階級は虫けらにちかい。
 ともあれ、長州藩には高杉晋作がその独創によって創設した騎兵隊があり、その後その方式によってつくられた諸隊というものがある。ついでながら、軍隊のことを「隊」と言いだしたのは、日本史上、長州のこの諸隊が最初である。

世に棲む日日〈3〉
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋; 新装版 (2003/04)
P300

TS3E0312 (Small).JPG到津の森公園




P26
 ロシア貴族(皇帝をふくむ)は、領地をもつ場合、地主であっただけでなく、その所有地の上に載っている農奴も私物でした。農地・農奴は持主の貴族の意思によって売買されます。おなじ土地でも農奴が何百人、何千人載っているかで、値段の上下がきまります。
 これからみると、江戸期の大名(将軍を含む)は、はかないものでした。ロシア貴族個人にとって、「おれ」という意識は「おれのもの」という私的所有の実感と不離なものだと思うのですが、これにひきかえ、日本の大名個人には、「おれ」も「おれのもの」もまことに希薄なものでしかありませんでした。
 たとえば江戸期の大名には、自分の城を売却する権利がありません。それどころか、お国替という配置転換の命令があると、城を空け、掃除をし、つぎの大名にあけわたしたのです。

P28
 長州藩毛利家の版図はいまの山口県で、三十六万九千石でした。ロシア史のほうから「日本史における江戸期の大名はロシア貴族と似たようなものだろう」と見るのは大まちがいだというのは、毛利家が、山口県の地主ではなく、また農民の私有者ではなかった、ということでもわかると思います。
江戸期における地主はあくまでも農民でした。大名は、かれらを統治し、そこから行政費として(という思想はあったと思います)租税をとりあげ、行政をしてゆく、という存在でした。

P30
 維新後、太政官府は、諸藩の反乱をふせぐため、大名を東京にあつめ、やがて大名の時代はおわりました。明治政府は、実質をうしなった大名に対し、廃藩置県したあと、石高に応じ、家禄をあたえました。~中略~
 ここで旧大名は、はじめて「私有」という権利を得ました。”大名の解放”というべきものでした。家屋敷も一般の者と同様、元大名たちにとって完全な私有になりましたし、政府から給与されるものも、それをどう使ってもいい性質のものになりました。

ロシアについて―北方の原形
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋 (1989/6/1)







 
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