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不動明王 [見仏]

  不動明王は、古代ドラヴィダ人の富者が何人も召しかかえていた少年給仕をかたちどっている。
かれら給仕たちは使者として密林を切り分け、毒蛇や猛獣を退治しつつ遠くへゆき、もどってくる。~中略~
 この不動明王の目的は、修行する行者を守ることにある。行者に給仕し、行者をしてなすべきすべてをなしとげさせ、ついには大智恵を得させて成仏させるはたらきをもつ。
日本においては仏教伝来以前から山岳信仰があり、渡来後、修行者はしきりに山にのぼって修行した。つねに不動明王がつき従った。行者が成道して里におりてもこの明王をまつったために里人もまた尊崇するようになったにちがいない。
(初出「アサヒグラフ」臨時増刊 昭和58年3月20日発行)
「密教の誕生と密教美術」より部分抜粋
司馬遼太郎

名文で巡る国宝の観世音菩薩
白洲 正子 (著),広津 和郎 (著),岡倉 天心 (著), 亀井 勝一郎 (著), 和辻 哲郎 (著)
青草書房 (2007/06)
P231

-6cb2e.jpg熊野磨崖仏

P67
 仏教の修行の道程には、さまざまな誘惑や困難が横たわっている。それらのものを乗りこえてゆく力を得るためのほとけも必要である。この意味をもったほとけは忿怒を現した姿に作られている場合が多い。そのうちの代表とでもいいうるのが不動明王である。
日本においては、多くの明王のうちもっとも信仰されてきたもので、現代においてもその信仰は衰えていない。そのために日本美術史をかざる優れた作品も多いのである。

P68
不動明王は密教においては大日如来のの使いと考えられている。そのことを証明するように、密教の根本経典の一つである大日経では不動如来使という名で説いているのである。不動明王関係の他の経典においても、不動使者としているものが多い。
 ヒンズー教の諸神でありながら、仏教にとり入れられて、仏教のほとけとして信仰されているものはかなり多い。
その諸神が仏教にとりあげられる場合には、二つの方法がとられている。その第一はヒンズー教における名称がそのままとり入れられて信仰される場合である。不動明王はその例の一つである。
この明王はヒンズー教の最高神の一つでありながら、そのままで仏教の一つである。この明王はヒンズー教の最高神の一つでありながら、そのままで仏教の守護神となり、如来の使者としての地位を与えられているのである。
第二の方法はヒンズー教の神を降伏させる力をもったほとけを作り出す方法である。不動明王と同躰であるということもいわれている降参世明王は、その足下に大自在天夫妻(シバ神夫妻)を踏んだ姿に作られている。しかしこの方法でとり入れられたものは比較的に少ないとみてよい。

P69
 日本で最古の不動明王像といえば、東寺講堂の像(七三ページ)をあげなければならない。この堂内に安置されている諸像は護国の経典である仁王経によって組み合わされ他者と言われている。しかしこの不動明王像は空海請来と考えられる仁王経五方尊図によって作られたものではなく、胎蔵界曼荼羅図中の像と摂無碍(しょうむげ)経に説くことなどを参考として作られたとみられる。

P71
不動明王像をより深く知るために、その内容(住人注;善無畏の講義を聞いて、一行が書きとどめた大日経疏廿巻)の概略をここに記しておくことにしよう。
「不動明王を画け、如来使者なり、童子の形に作せ。右に大慧刀の印を持ち、左に羂索を持つ。
頂に莎髻(しやけ)あり、屈髪垂れて左の肩にあり。細く左の眼を閉じ、下歯をもって右辺の上唇を嚙み、その左辺の下唇はやや翻って外に出せ。額に皺文ありて、水波の状の如し。石上に坐す。その身は卑しくして、充満肥盛なり。忿怒の勢、極忿の形を作れ。是れその密印の標幟なり。」
~中略~ この形容が如何なる意味をもって作り出されたかを考える材料としては、前掲の文章のあとに、「この尊は既に成仏しているが、その願いを達成するために、はじめて仏教修行を志し、大日如来の従僕となった形をとるために、諸相不備の姿を示現している」といっている。
即ちこの姿は、両眼が不揃いで、歯の並びは悪く、額にしわがより、ずんぐりとして肥満したもので、如来や菩薩の端正な姿に比べると、全く反対の姿を想定しているのである。
ここに述べられている姿は階級制度の厳しいインドにおける下層階級である被征服民族の姿から出発したものかと見られる。
それを証明するかのように、平安時代の大原長宴の撰集した四十帖決第八には、「不動明王の髪の型はインドの奴婢の風習である」と指摘しているのである。

P77
 日本において単独の不動明王信仰をとりあげたのは智証大師円珍のころからである。
円珍は承和五年に修行中に感得した不動明王像を描いたと伝えられている。それが三井寺に現在も伝えられている黄不動尊像である。
ここに描かれている尊像は筋肉がもり上がったたくましい肉体で、両眼を大きく見開いて立っており、頭髪は螺髪を規則的にならべた形に表されている。この姿は不動明王としては全く異形であり、儀軌によって描いたものとはみられない。それは円珍が偉大なる力をもった不動明王の性格を表現するための、より適切な姿として想像したものとみられる。
 その儀軌を無視した表現を行なうということは、既に東寺講堂の不動明王像の制作においても、空海が行なっていることであり、その甥である円珍はその儀軌に対する積極的な新しい解釈を行なう態度をうけついだものといってよい。

P78
 立った姿の不動明王を描くように規定する儀軌はない。しかしこの白描図像のなかの不動明王像と黄不動尊像をはじめとして、平安時代の不動明王像で立った姿に作られている彫刻や絵画がかなりある。
それは主として天台系統のなかにおいて制作されたものに多いと考えられる。~中略~
円珍大師以後における不動明王は天台だけでなく、真言系統においても盛んとなり、物の怪におびやかされる貴族のあいだにも急激にひろまっていった。

P92
 われわれが不動の中に直観的に見るのは、一つの力であり、衝動である。
しかし、経典はいささか違った説明を不動に与えるのである。不動の怒りは決して敵に向けられたものではない。それはむしろ己の煩悩に向けられたものである。不動のもっている剣できるのは、憎むべき敵ではなく、己の欲望であり、索でしばるのは他人ではなくして己の心なのであり、炎々と燃える火炎も、身を焼く衝動の炎ではなく、煩悩を焼きつくす炎なのである。
不動の怒りは、外より内に、他人より自己に向かっている。
それゆえ不動の力は、人に勝つためのものでなく、己に勝つためのものである。

P100
 日本の歴史において、不動明王がもっとも活躍したのは、元寇なのである。
高野山南院にある波切不動は輝かしき従軍の記録をもっている。弘法大師が唐から、帰朝の際に、海路安全を祈って師、恵果(けいか)から送られたというこの荒れ狂う波を踏んで立っている不動明王は、元寇という海からの侵入者の降伏に対して、もっとも有効な能力を発揮するほとけと考えられたものであろう。
この明王は、九州までもってゆかれ、敵国降伏を祈って、無事仏務を終えて帰ったが、背後の火焔だけはその地に置いてきたといわれる。また弘安五年二回目の元寇の際に描かれたという信海の不動明王図は、不動が激しく、同時に不安な面持で、海の彼方をにらんでいる、不動明王図の傑作である。これを見てもわれわれは、不動明王の像が、日本人にとっていかなる精神的意味をもったかを理解することが出来るのである。

続 仏像―心とかたち
望月 信成 (著)
NHK出版 (1965/10)




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