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神との対話のなかで自分を見つめる [宗教]

ルターの攻撃した教会の権威は、個々の信徒の外にあって、個々の信徒に否応なく服従を強いるものであった。
その権威によって押しつけられる具体的な宗教的信条や宗教行為のうち、常識的に見ていかにも宗教の道に外れたかに見えるものだけを攻撃の対象としていたルターの抗議は、やがて、教会の権威そのものや伝統そのものを攻撃の目標とするものとなっていく。教会との決別をも辞さない抗議となっていく。
 が、重要なのは、ルターの抗議が教会の権威にかわる別の権威を個々の信徒の外に設定し、それへの服従を要求するような抗議ではなかったことである。
ルターの死後、プロテスタントがしだいに勢力を拡大し、カトリックとのあいだに血なまぐさい宗教戦争をくりかえすまでになれば、プロテスタント自体が明確に一つの権威になったといえるが、それはルターの本意ではない。
ルターの抗議は、もう一つの権威を打ちたてるためのものではなく、宗教的な権威そのものの解体を目指すものだったのである。ルターの抗議が別の権威をかつぐものだったとしたら、その宗教改革はとうてい近代を画する事件とはなりえなかった。
 権威なきところには裸の人間が神と呼ばれるものと直接に対面する。
権威に服従するのでも、権威をたよりとするものでもなく、自分の信仰にもとづいて神と対話し、神との対話のなかで自分を見つめる。それがルターにおける信仰者の位置であった。


新しいヘーゲル

長谷川 宏(著)


講談社 (1997/5/20)

P152







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