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カライモ [雑学]

カライモは元禄年間には九州の一角に入った(種子島は元禄十一年)とされるが、ひるがえって思うと、それよりほんの少し前の貞亨元年(一六八四)年での薩摩藩にあっては、人口は三十五万人でしかない。
 薩摩藩の人口についてふれる。元禄ののちの宝永三(一七〇六)年には、貞亨元年から二十年とすこししか経ていないのに十万人ほど殖え、四十六万人になっている。十万人という大量の人口増加は、まぎれもなくカライモのおかげである。

~中略~
その頃、間引をのがれてこの世に送り出された者も、べつに神に感謝せねばならぬほどの幸福が待っていたわけではない。農民だけでなく下級武士もふくめて激しい農耕労働をし、そのエネルギーを補完するには、ヒエやアワではとても十分ではなかった。
 こういう状況からみてカライモの伝来というのは、農民の露命を繋ぎとめる上での画期的大事件であった。その感謝が、カライモをもたらした人を神として祀ることになったわけで、こんにち飢餓体験が遠いものになっているわれわれでも、当時のひとびとの気持ちが十分想像できる。
 ところが薩摩藷そのものはコロンブスによってアメリカ大陸で発見されたものなのである。まわりまわって江戸中期以後の日本人の生命をこのことが繋いでくれることになったのだが、コロンブスの新大陸発見の影響の第一にこのことを挙げている社会科教科書が一冊でもあるだろうか。べつに感謝ということではなく、事実認識ということは、およそそういうことだという気がする。

街道をゆく (8)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1995)
P266

DSC_1749 (Small).JPG吉野ヶ里遺跡

以前奥州などの田舎の料理には、いわゆる薩摩芋は椎茸や蓮根と、同等以上の待遇を受けたものだ。
それが運送が手軽になったばかりか、気仙あたりの島や半島にまで、とうとうこれを栽培するようになった結果、だいぶ近ごろは平凡化しようとしている。
これに反して関東の大都会には、八里半の名声遠くとどろき、青木昆陽の墓の前に、焼芋屋の組合が感謝の祭をいとなむような時代が来た。
遠州御前崎附近はまた事情が別で、薯種(いもだね)を輸入した大沢権右衛門の記念碑は、薯きりぼし生産業者などが、主としてその建設のために奔走したようである。

同じ薩摩芋地帯のわずか数十年の歴史にも、よく見るとこれだけの変化がある。いわんや当初この物を沖縄にもたらした
野国総管、それをヤマトに招き入れた薩州稚児水(ちごがみず)の継川利右衞門、これを中国地方へ伝えた石見(いわみ)の薯代官井戸平左衛門などの、二百年前の心持では、はたして今現に生じている社会上の効果の、どれだけの部分までを予期していたものであったか。とうていわれわれ「おさつ」階級に属する者の、完全に理解しうるところではないように思われる。
 自分は考える。少くともこれだけは意外の効果ではなかったかと。『甘薯(かんしょ)考』その他の宣伝書を見ると、主として不作の年の百姓飯米(はんまい)を補い、あるいは島の流人などが飢えを救うのをもって、藷(いも)の恩沢(おんたく)の至極と認めていたようである。
それが今日では、ずいぶん宏大な地域にわたって、凶年でもない年に流人でもない人々が、必ず作り必ず食う農作物とはなっているのである。
かくのごとき生活上の変化は、まさしく大事業である。しかも二百何十年の歳月より他に、誰が企ててこれをなしとげたと、いう人も別になかったのである。
 カライモ地帯を旅行してみると、また新たに国の運命というようなものを考えさせられる。海近く日の暖かい唐藷畠の一部分は、かつては疑いもなく浦人(うらびと)の粟生豆生(あわふまめふ)であった。こんな雑穀類の調製がめんどうで、一人を養うための面積が多く入用なものより、甘いだけでも唐藷の方が好ましい。その上に世話も入費も概して少なく、凶作の患いもずっと減じうる。沖へ出て行く舟の弁当には、片手で食えるから便利だといった婦人もある。こういう考えがもとになって、日本人なれども長年の箸と茶碗に分かれ、薯の食事を常とするようになったのである。
しかも、いわゆる港田の遠く拓(ひら)かれ、清水豊かにこれをそそぐような浜方において、必ずしも急にこの薯作りの生活に移らなかったのは、何といっても米にまさる食物はないからである。水にとぼしい岬や島の蔭で、以前はたぶんに人を住ましむる望みもなかった畠場が、この唐芋の輸入によって、初めてある意味における安楽郷となり、またたくうちに今日のごとき人口密集をみるにいたったのである。
甘藷先生とその先進とがもし出なかったら、これらの海岸の岡は今なお萱(かや)だち雑木だちのままで、しかもわれわれは、つとに国内にあふれていたであろう。もちろん大いに苦悶しつつも、すでによほどの人数を他国に出しており、このいわゆる民族主義の時世に出くわして、今さら移民問題に行きづまるようなこともなかったであろう。
実際この小さな島国の山国に、五千九百万人を盛りえたのは、一半(いっぱん)はすなわちカライモの奇蹟である。あるいは激語してカライモの災いと言った人さえもあるのである。

海南小記
柳田 国男 (著)
角川学芸出版; 新版 (2013/6/21)
P15










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