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自己決定権と自己責任 [日本(人)]

養老 医者の場合は、告知した方が楽に決まってるんですよ、当然。医療訴訟が起こりにくくなるし、いわゆるインフォームドコンセントですから治療がやりやすい。
あなたはガンですからこうこうこういうことをするんですよって言えるでしょう。それ、以前はどうやっていたかっていうと、有名な話があるんです。

旦那さんがガンで、告知はしていない。それでその患者さんと奥さんを前にして、放射線科の医者が、ガンだって言えねえから、しょうがない、苦し紛れに適当な理由つけて、放射線の治療をしますとインフォームしたわけです。
そしたら、奥さんのほうが「先生、放射線治療をするってことは、主人は本当はガンじゃないですか」って。
で、患者である旦那さんのほうが、「お前、先生に向かってそんなこと言うもんじゃない」。

これが古き良き日本だったんですよ。それが通じない世界になったでしょう。通じない振りをするというか。
これ、非常に難しい問題になっていますよ。先生にお任せしますという態度には裏表ありまして、すごんでる場合も有り得るわけです。
うまくいかなかったらただじゃおかねえぞっていう。極端に言えばね。

養老 孟司 (著) 玄侑 宗久 (著)
脳と魂
筑摩書房 (2007/05)
P185

脳と魂 (ちくま文庫)

脳と魂 (ちくま文庫)

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2007/05
  • メディア: 文庫


2181865新薬師寺1

坪井(住人注;坪井栄孝) これはまさに日本の医学の成り立ちというか、民族性、社会性というか、いわゆるパターナリズムで成り立ってきているんですね。
日本人は権威に弱かったり、専門性を認めないくせに、何となくそういうものにぶら下がったりする。ですから医学もそうで、「お医者さんに任せますよ」と。医者のほうも、「俺に任せろ」といいたくなるなるんですよ。
~中略~

しかし本来は、当人が病気なわけですから、病人がどう考えるか、病人がどうして欲しいのかということを赤裸々に話し合って、ちゃんとしなければいけなかった。ところが先ほどいったような話で、そういう国民性、社会性があったものだから、むき出しにすることは忌み嫌って、避けたんですね。
それが、日本の医療の中で告知ということを遅らせたひとつの原因だと思います。
告知した方がお医者さんにとっても、ずっと楽に決まってますよ。お医者さんだけじゃなく、看護師さんたちも。

玄侑 個人主義というものが、土壌としてないのも大きいような気もしますね。
私の友達がドイツに嫁ぎまして、ドイツ人との間に子供ができた。お姑さんはドイツ人のお母さんです。子どもが出来て、ゆりかごで寝ているわけですよ。昼寝をしてて、目が覚めると子どもは泣きますよね。それに駆け寄ろうとしたら、お母さんに止められた。
「我慢しなさい」と。「ここで我慢しないと、あの子はちゃんと育たない」と。こういう国で育てられた子どもは、全然違ったものになるだろうなと思いました。
~中略~
個人主義とか、そういう意識の土壌が基本的に違うのかなと思いますね。
だから、最後だけいきなり個人主義にさせられて、告知した方がいいだろうと考えられるのも、大変だと思うんです。

玄侑 宗久 (著)
多生の縁―玄侑宗久対談集
文藝春秋 (2007/1/10)
P121


多生の縁 (文春文庫)

多生の縁 (文春文庫)

  • 作者: 玄侑 宗久
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2007/01/10
  • メディア: 文庫



考えてみると、こういう患者発信の本が、現代ほど必要な時代はありません。
なぜなら、現代の医療は、以前の「先生にお任せ」といった医者中心の医療ではなく、患者が自分で治療法などを選択しなくてはならない変革期だからです。
患者の自己決定権を大切にする医療へと変化してきているからです。
でも、私たち日本人は、長い間「お任せ」医療の中にいましたから、「自分で決めなさい」と言われても、おたおたするばかり。

 市場に出回っている医者の側から発信されたガン関係の本の多くは、病状や治療法であり、知識の吸収にはすこぶる有益。
でも、患者は実はそれらとは次元の違う実際的なことで悩んでいるんですね。
病院はどうやって決めたらいいのか?手術ってしなくちゃいけない?手術するとしても、執刀医の腕は信じられる?看護師の態度に傷ついちゃうけど、仕方ないの?
手術する入院の時の病室は個室にしたほうがいいのか?
 患者は、こういう現実的な問題で困惑しているのです。

大学教授がガンになってわかったこと
山口 仲美(著)
幻冬舎 (2014/3/28)
P9

大学教授がガンになってわかったこと (幻冬舎新書)

大学教授がガンになってわかったこと (幻冬舎新書)

  • 作者: 山口 仲美
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2014/03/28
  • メディア: 新書


DSC_0567 (Small).JPG斑鳩寺 (兵庫県太子町)

ヨーロッパ人宣教師フロイスはこう書いている。
「若狭の国(福井県)には海に沿って、やはり長浜と称する別の大きい町があった。そこには多数の人が出入りし、盛んに商売が行なわfれていた。人々の大いなる恐怖と驚愕のうちに、その地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。
高潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑み込まれてしまった」
 現在、福井県に長浜という町はない。東大地震研究所が編んだ「新収日本地震史料」はフロイスのいう「長浜」は「高浜」の誤りではないかとしている。 高浜には、高浜原発が立地する。
 京都の公家・吉田兼見の日記にも若狭湾の津波の記述がある。「丹後・若州・越州、浦辺(うらあたり)、波を打ち上げ、在家ことごとく押し流す、人死ぬ事数知らずと云々」。
丹後半島から福井県沿岸のかなり広い範囲の海岸を津波が襲い、人家をことごとく押し流し、数知れない死人が出たという。
 歴史地震学者は長年の調査から経験的に、江戸時代以前の人家は二メートル以上浸水すると、ほぼ流失することを知っている。たとえば、標高二~三メートルの海辺に人家が並び立つ漁村の場合は、それが「ことごとく押し流された」となると、四~五メートル以上の津波が襲ったと推定する。
このような考え方で津波の高さや浸水深を考える。
~中略~
 正確な情報のもとに、原発が安全か危険かを判断し、その将来を決めるのは、役所でも電力会社でもなく、有権者たる我々自身だから、しっかりみて判断材料にしていただきたい。

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災
磯田 道史 (著)
中央公論新社 (2014/11/21)
P16

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)

  • 作者: 磯田 道史
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2014/11/21
  • メディア: 新書




 残念ながら、医療者は患者とは他人である。そして、医療者は医療に関する知識が豊富にあり、患者が置かれているケースでは、どういった選択をすればいいかの判断をする能力が高い。
しかし、それは、あくまでも長い目で見て、今の快楽を抑えて、将来に振り分けるという形の(26)パターナリズムであると言える。このような判断は、当事者には難しく、他人ゆえにできることなのである。
 一方で、本人に決めさせさえすれば、医療倫理における「自律原則」が保持されて、倫理的であるといえるのだろうか? ジョン・スチュワート・ミルは「自由論」の中で、「愚行権」というものを提唱した(27)。それは、「人間にとって自己決定権はもっとも守られるべきである以上、たとえそれが愚かな行為であるとしても、世の中から自己決定権が失われるよりはましである。そして、愚行はやがて、自然淘汰されるはずだ」という考えなのである。 現在の医療倫理の4原則(28)における「自律原則」はこの考えに基づいている。
 しかし、医療者と患者の関係の中で、「愚行はやがて、自然淘汰される」のだから、やりたいようにやらせておこうという考えが、およそ、倫理的でないことに多くの人は同意するだろう。
 ミルは、とんでもなく冷たい人のようにおもわれるかもしれないが、彼の時代は人々の自由がようやく大切にされはじめたときであり、そこには、人間が長い歴史を経て、苦労してようやく手にした「自由」を失ってはならないという強い思いがある。 そして、彼は、「自由論」の中で、愚行権について述べた後に、以下のように記している。
  その人が本人の不始末のせいで生活に苦しむことになっても、だからといって、もっと苦しめてやろうとか思わないようにしよう。その人を罰したいと望むのではなく、本人の行為が本人にもたらしかねない災いをいかに避け、いかに解消するかを教えてあげて、その罰を軽くしてあげるよう努力したい。
  (中略)
  われわればその人にやってよいと思われる一番ひどいことは、その人に何もいわず好きにさせておくことである。  患者やその家族は、医療に関する十分な知識がない。いくら時間をかけても、医療者が学んできたコストを上回ることは不可能である。
だからといって、説明しなくていいわけではない。説明と同意は「患者の権利」を守るために社会から要請される必須事項である。しかし、実はより多くの情報を与えれば与えるほど、日頃はヒューリスティックナッジによる選択に慣れ親しんでいる人間の脳は、混乱をきたし、人生の大切な選択に考え違いや誤りが生じることは当然の結果なのだ。
これを放置して、自己決定権さえ守られていればいいというのは、もはや倫理的とは言えない。また、ナッジが、意思決定者の「したくないこと」まで、逆方向に誘導できるのかというと、それはこれまでの研究で否定されている。「したくない」ことなら、明確に拒否できる権利は担保されているのである(29)。
(掘謙輔、吉田沙蘭)

医療現場の行動経済学: すれ違う医者と患者
大竹 文雄 (著), 平井 啓 (著)
東洋経済新報社 (2018/7/27)
P97


医療現場の行動経済学: すれ違う医者と患者

医療現場の行動経済学: すれ違う医者と患者

  • 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
  • 発売日: 2018/07/27
  • メディア: 単行本



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