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救世観音像 [見仏]

殊に夢殿の秘仏救世観音像 に至っては、限りなき太子讃仰の念と、太子薨去(こうきょ)に対する万感をこめて痛惜やる方ない悲憤の余り、造顕せられた御像と拝察され、他の諸仏像とは全く違った精神雰囲気が御像を囲繞しているのを感ずる。
まるで太子の生御霊が鼓動をうって御像の中に籠り、救世の悲願に眼をらんらんとみひらき給うかに拝せられる。心ある者ならば、正目には仰ぎ見ることも畏しと感ぜられる筈であり、千余年の秘封を明治十七年に初めて開いたのがフェノロサという外国人であったという事であるが、これは外国人だからこそあえて為しえたというべきである。~中略~
作者が絶体絶命な気構えで一気にこの御像を作り上げ、しかも自分自身でさえ御像を凝視するのが恐ろしかったような不思議な状態を想見することが出来る。藤原時代に早くも秘仏としておん扉を固く閉じることに定められたという事のいわれが分かるような気がする。この御像にはあらゆる宗教的、芸術的約束を無視した、言わばただならぬものがあるのである。
(初出「婦人公論」昭和17年9月号)
高村光太郎

名文で巡る国宝の観世音菩薩
白洲 正子 白洲 正子 (著),広津 和郎 (著),岡倉 天心 (著), 亀井 勝一郎 (著), 和辻 哲郎 (著)
青草書房 (2007/06)
P109
http://buzzmap.so-net.ne.jp/onoki/spot/32234

https://www.youtube.com/watch?v=leR4uH_j048


P13
 夢殿の地は太子の御邸(おやしき)だった斑鳩宮の趾といわれる。太子薨去(こうきょ)の後、御遺族は悉く蘇我入鹿(そがのいるか)のため滅ぼされ、斑鳩宮もむろん灰燼(かいじん)に帰したのであるが、およそ百年後の奈良朝にいたって再建された夢殿が、幾たびかの補修を経て現在に伝わったのだという。
もとは斑鳩宮寝殿の近く、隔絶された太子内観の道場であり、ここにこもって深思されたと伝えらるる。
いずれにしても太子の御霊(みたま)は、いまなお憩(いこ)うことなく在(いま)すであろう。
夢殿に佇(たたず)む救世(くせ)観音の金色(こんじき)の光りは、太子の息吹(いぶき)を継ぎ宿しているかにみえる。
百済観音のほのぼのとした鷹揚(おうよう)の調べとも、また中宮寺思惟像の幽遠の微笑とも異なり、むしろ野性をさえ思わしむる不思議な生気にみちた像である。慈悲よりは憤怒(ふんぬ)を、諦念(ていねん)よりは荒々しい捨身(しゃしん)を唆(そそのか)すごとく佇立(ちょりつ)している。
太子は未曽有(みぞう)の日に、外来の危機を愁(うれ)い、また血族の煩悩や争闘にまみれ行く姿をご覧になって捨身を念じられたのであったが、そういう無限の思いを救世観音は微笑のかげに秘めているのではなかろうか。

P30
 ところがそういう私も、はじめて救世観音を拝した頃は、ただ彫刻としてみようとする態度を捨てきれなかった。拝するというのではない。美術品をして観察しようという下心で「見物」に行ったのである。むろん救世観音は一瞥(いちべつ)にして私のかかる態度を破砕した。あの深い神秘はどこから由来するのか―美術的鑑賞によって答えられる問題でないことは直ぐわかった。
~中略~
 その後このみ仏に接するたびに起こる不思議な感銘のままに、私はやがて上宮太子の御生涯に思いをいたすようになった。古美術通たることはもとより私の望むところではない。末期文明よりの癒の象徴としてみるだけでもむろんもの足りなく思えてきた。
救世観音の私に与えた謎(なぞ)は、畢竟(ひっきょう)その背後に遠く深く漂う歴史の深淵(しんえん)にひそむのではないだろうか。私には歴史への信仰が欠けていたのだ。上宮王家の悲願と無念の思い―私は次第にここへ辿りついて行ったのである。

大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)


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