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田の浦 [門司]

 六月五日(住人注;文久3年(1863年)下関戦争)の下関攻撃の際、フランス軍艦セミラミス号乗組員アルフレード・ルーサンの参戦記に、「我々は海峡の南岸豊前侯の領地田野浦を背にしていたが、戦が始まると多くの人民は、海浜や漁船に充まんし、或いは山寺の石段に羅列して、戦の光景を物珍しげに見物していた。」
 当時、門司は譜代大名の小倉藩領で、攘夷を唱える長州藩とは立場を異にし、幕府にくみし(佐幕)時勢やむなく中立の立場をとっていたので、外国船は門司側を航行していた。
 このため、外国人は門司に上陸して、食料や飲料水の補給、散歩や洗濯などする者が多くなったが、毛色や生活様式も変わっているので、毛唐人とか異人と呼んでいた。
 ある朝、沖からポンポンと異様な音をたてた船が櫓やかいをつかわずに近づいてくる。
「あれはバッテラというものじゃそうな、何をするのじゃろうか・・・」
と見ていると、海の浅深を測り、岩に白ペンキを塗ったり、上陸しては山や谷を測量し、地図を作成していた。  一番心配したのは村役人で、女子供の外出を禁じ、雨戸を締めよと叫んで廻り、牛や馬を取って食うそうな、野や畠を荒らされはしないだろうかなどと、小倉藩へ早飛脚をたてて報告している。
 だんだん慣れて恐怖の念がなくなると、物珍しそうに、ぞろぞろとつき廻るのは、今も昔も変わらない人情である。  ある時、毛唐人は井戸の中に汚れ物を投げ込んで、洗濯しようとした。付近の人が見とがめてこごとをいうと、今度は八幡宮の放生池へ行き洗濯をしだした。
 ところが、衣類から突然白い泡を吹き出した。もむごとに泡が多くなる。村人はお互いに顔を見合わせ不審に思っていると、気の利いた者が進み出て、手真似で何かと問うたところ、シャボン(石鹸)というものだと教えられても、この謎を解き得るものはいなかった。
 「溜まった水いけません。流れる水よろし・・・」とのことで、栄川を教えた。彼らはすぐ流れをせき留めた。どおのようにして汲むのかと見物人がかたずをのんで見ていると、ポンプとホースでたちどころに、大量の水を樽につめて車で運び去った。
しばらく、ぼう然と見ていた人々は、
「これこそキリシタン・バテレンの魔法かしら・・・」と、肝を冷やしたという。

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P160

DSC_0064 (Small).JPG田の浦


タグ:中山主膳
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