SSブログ

関門海峡 [門司]

 二〇〇年には隼人社(和布刈神社)が創建された。
~中略~
 八〇六年(大同元年)には僧空海によって、戸ノ上山満隆寺が開創、密教修行が盛んに行われ、八六〇年(定観二年)には、西海守護神として甲祖八幡神社が建立された。
 この間、神宮皇后朝鮮半島出兵の伝説、遣隋使、遣唐使、帰化人などの通峡も盛んであった。
 関門海峡は文化的に見て、瀬戸内海文化圏と福博文化圏の交流点に当たり、遠くは朝鮮半島や中国大陸、東亜アジアに通ずる国際航路上にある。
~中略~

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P2

 

DSC_4340M (Small).JPG関門海峡

さらに詳しく


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

戸上神社 [門司]

寛平年中(八八九年~八九八年)柳ヶ浦の漁夫の重松大江(一書に大江繁松)という人あり。  ある夜海上に船を浮かべ漁獵をするとき、漁網に光輝く玉のようなものがあった。
 はじめ、これを大里松原の根二の海岸の松の根元に安置したが、馬寄(まいそ)村の一老夫(一書に伊古野大学)の夢枕に、夜毎に異光を放つものあり、われは天之中主命也と告げられたので、行って見ると、清水がわき出る所にある鳥居の上に、その物が置かれていた。
 老父はもったいないことと持ち帰り、屋敷内に柴を結び小社を建てて祀った。これは現在伊古野家に祭られているもので、この宮は鳥居の宮と申し上げる。
 其後、里近きは恐れ多いと、一ヶ坂前立山に遷座、更に鶏の鳴声の聞こえない清浄な場所へとの御神託があったので、枝折戸に載せ山上に移し鎮座した。
 よって社を戸ノ上神社と称し、山を戸ノ上山と呼ぶようになったという。

 のち、神仏混合の時代になってから、小倉福聚寺黙厳(一七五二年歿)が、仏教側から縁起をたて(戸上山満隆寺記)次のように記している。
 これより先、大同元年(八〇六年)空海は中国より帰朝の際、船を柳ヶ浦に着け、この山上は瑞雲たなびく霊境なるを知り、山に上り一七日の密法を修し、山麓に一寺を建立し、唐から持ち帰った観音像を安置しお祀りした。これを満隆寺という。
 天慶年中(九三八年~九四五年)藤原純友の乱がおきたとき、源経基は討伐のために西下し、戸ノ上神に戦勝を祈り大勝を得た。
 経基いたく感激し、新祠を再建、宝剣一振を奉納し併せて社領若干を下附し、国家安全の祈禱を命じた。
 当時、寺院は山上、山下に六坊(満隆寺・東源寺・修善寺・法高寺・円明寺)があり、歴代密乗を唱え、満隆寺が取り締まっていた。
後略~

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P57

 

DSC_5432 (Small).JPG

戸ノ上神社秋季大祭


タグ:戸ノ上神社
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

大里 [門司]

下関の亀山八幡宮の下から海峡をわたった。対岸の豊前側の港は、
「大里」(住人注;だいり)
 という。いまは北九州市門司区にふくまれってしまったが、江戸時代、この大里という海港のにぎわいはむしろ門司港をしのいでいた。
 松陰は海浜にそって小倉の方角をめざした。海浜はながい。磯馴(そな)れ松のみごとな林がつづいている。浜も松も小倉までつづく。この浜は、
「聞長浜(きくのながはま)」  というみやびた名がついており、万葉のころから歌の名所であった。が、松陰には万葉集への関心はない。知識もなかった。 途中、赤坂という村がある。
~中略~
赤坂村は、漁港である。同じにここも大里と同様、海峡をわたる海駅でもある。

世に棲む日日〈1〉
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋; 新装版 (2003/03)
P58

TS3E0294 (Small).JPG北九州市門司区大里

さらに詳しく


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

梅花石 [門司]

 梅花石は白野江の青浜串ヶ鼻の瀬戸内海に面した海浜から出て、岐阜県の菊花石とともにわが国二大奇石といわれている。
 渋い感じのする灰黒色や紫褐色の母岩で硬く、輝緑凝灰岩(Schalstein)という。
 その層面に散布する純白五弁の「花」と未だ開かない蕾のように円い輪の模様のようなものが、大小形状多様で、梅花状の紋様を表わすので、古来「梅花石」と言われてきた。
~中略~
 初めは中世代の海百合「ペンタクリヌス」(Pentacrinus)の柄の化石と考えられたが、松本彦七郎教授はその構造から古世代(二畳紀から石炭紀頃まで)の「ヘテロクリニジー」(Heterocrinidae)に属するものと決定された。
(梅花石 岡本要八郎)

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P193

DSC_5168 (Small).JPG門司港駅

【県指定】梅花石岩層 附 梅花石大形置物 1個

http://www.city.kitakyushu.lg.jp/shimin/02100269.html


タグ:中山主膳
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

田の浦 [門司]

 六月五日(住人注;文久3年(1863年)下関戦争)の下関攻撃の際、フランス軍艦セミラミス号乗組員アルフレード・ルーサンの参戦記に、「我々は海峡の南岸豊前侯の領地田野浦を背にしていたが、戦が始まると多くの人民は、海浜や漁船に充まんし、或いは山寺の石段に羅列して、戦の光景を物珍しげに見物していた。」
 当時、門司は譜代大名の小倉藩領で、攘夷を唱える長州藩とは立場を異にし、幕府にくみし(佐幕)時勢やむなく中立の立場をとっていたので、外国船は門司側を航行していた。
 このため、外国人は門司に上陸して、食料や飲料水の補給、散歩や洗濯などする者が多くなったが、毛色や生活様式も変わっているので、毛唐人とか異人と呼んでいた。
 ある朝、沖からポンポンと異様な音をたてた船が櫓やかいをつかわずに近づいてくる。
「あれはバッテラというものじゃそうな、何をするのじゃろうか・・・」
と見ていると、海の浅深を測り、岩に白ペンキを塗ったり、上陸しては山や谷を測量し、地図を作成していた。  一番心配したのは村役人で、女子供の外出を禁じ、雨戸を締めよと叫んで廻り、牛や馬を取って食うそうな、野や畠を荒らされはしないだろうかなどと、小倉藩へ早飛脚をたてて報告している。
 だんだん慣れて恐怖の念がなくなると、物珍しそうに、ぞろぞろとつき廻るのは、今も昔も変わらない人情である。  ある時、毛唐人は井戸の中に汚れ物を投げ込んで、洗濯しようとした。付近の人が見とがめてこごとをいうと、今度は八幡宮の放生池へ行き洗濯をしだした。
 ところが、衣類から突然白い泡を吹き出した。もむごとに泡が多くなる。村人はお互いに顔を見合わせ不審に思っていると、気の利いた者が進み出て、手真似で何かと問うたところ、シャボン(石鹸)というものだと教えられても、この謎を解き得るものはいなかった。
 「溜まった水いけません。流れる水よろし・・・」とのことで、栄川を教えた。彼らはすぐ流れをせき留めた。どおのようにして汲むのかと見物人がかたずをのんで見ていると、ポンプとホースでたちどころに、大量の水を樽につめて車で運び去った。
しばらく、ぼう然と見ていた人々は、
「これこそキリシタン・バテレンの魔法かしら・・・」と、肝を冷やしたという。

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P160

DSC_0064 (Small).JPG田の浦


タグ:中山主膳
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

馬寄 [門司]

 神宮皇后が三韓出兵のとき、この地で軍隊の調練をし、軍馬を集めたとの口碑により、里人は馬寄の文字をあて「まいそ」と読ました。
 この発音について、小倉徳力神理教佐野経彦は、その著「企救郡誌」に後記里程表と同じく「真磯」の字をあて「まいそ」と読ませている。
 その論拠について、この海岸は萬葉集にもうたわれた「企救の高浜」の一部で、これに並ぶ他の高浜や長浜が、共に砂原であるのに、この浜は美しい松原で、小石が敷き並ぶ磯であるので、
まことの磯「真磯」、それ古に神宮皇后が人馬の勢揃いをしたという因縁から、「馬寄」の字をあてたとも考えられる。
 土着の人は殆ど、また、研究家(石崎・大田両氏)も「まいそ」と発音し、その著書にも「まいそ」とふり仮名をつけている。
 そのときの役馬を、馬寄で飼っていたといい、馬屋敷の小字名ものこっている。

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P124

DSC_5468M (Small).JPG

DSC_5470M (Small).JPG馬寄について


タグ:中山主膳
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

不老町 [門司]

  また、前記柳御所考(住人注;佐野経彦)に
「風呂という処ありて、いとめでたき清水あり。古へは土俗傳言、古へ安徳天皇此村におわせしほど、此清水を汲てめしたまひしとぞ。吾学兄犬甘知言は曰。春日氏の硯海日記に、柳村の不老水は安徳天皇の、めし給ひし水とて今に里人の口碑にのこり、常に汲よごす事をいましめ、縄引しかへたり。小児のむしけ、婦人の血の病あるものは、此の水を汲みてのめば、必ずしるしあると、峯親親(ママ)王なる者に語りけるを聞たり。云々」
大正末期につけられた不老町という町名も、このいわれで名付けられたものである。

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P 81

DSC_5396 (Small).JPG風呂の井戸


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

恒見八幡神社 [門司]

  天長元年(八二四年)恒見城主安芸入道平道金が祭主となって、豊前国宇佐八幡宮の御分霊を勧請して奉祀した。

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P69

DSC_5399 (Small).JPG


タグ:中山主膳
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

柳の御所 [門司]

宗盛はじめ平家一門は、この地眺望よく故ある所なりとて、御所造営にとりかかった。
 里人は京都の御所になぞらえて、周囲に柳、梅、桃、李等を植え、幼帝をお慰め申し上げた。
~中略~
 柳御所に天皇が滞在されたのは、源平盛衰記に七日としている。
「柳御所考」で佐野経彦は、いろいろな状勢から、皇居材せし程は、八月末より九月の末に到れると思われる、と推定している。

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P79

DSC_5448 (Small).JPG

さらに詳しく


タグ:中山主膳
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

静泰院 [門司]

静泰院 大里の戸ノ上山のふもと、豊国学園の西隣、柳小学校との間に静泰院という堂庵がある。
 静泰院は小倉藩主小笠原忠真(初代)の弟、出雲守長俊の霊をとむらうため、その法名の「静泰院殿」をとって名付けられたものである。
~中略~
 開基当初はあまり名の知れない一寺院にすぎなかったが、この静泰院が北豊第一の禅寺とし、後世になって、一時、小倉広寿山福聚寺(黄檗宗)と並び称されるようになったのは、名僧の譽高い蘭山が小倉開善寺(臨済宗)を辞し、明和七年二月十五日に静泰院に入ってからである。
 城下町の騒音と菩提寺としてのいそがしさから離れた蘭山は、戸ノ上山麓の静寂さを愛し、この地で余生を送ろうとしたようである。(黄檗宗は臨済系の禅寺で、もと臨済宗の一派であった。)
 しかし、その学徳を慕って諸国から、教えを請うもの相続いて絶えず、断っても去らず、樹下の石に座し、ひたすら許しを乞うので、遂に余生を禅徒の錬成にうちこもうと意を決した。
 同年秋には小笠原藩主の外護により、お寺もでき、諸堂も完備し、学園の経営はもとより、九州、四国、山陰の遠方よりの請にも応じて宣教開化の労を辞ぜず、日もこれ足らぬという有様で、修業した学徒は常に百余名もいたという。

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P113

DSC_5340 (Small).JPG静泰院

さらに詳しく


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

門司 [門司]

 中国の古書に「門関トハ司ㇾ門、司ㇾ関」、総テ事物ノ必ズ経由スル関鍵(枢要)等とある。
 門司の地名は、本州から九州に入る、または出る要路であることの外、瀬戸内海文化圏と福博文化圏交流する門(下関と門司を門柱とみる)を司るということから、関所を置き、関と同名異語も門司と名付けられたものと思う。

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P72

DSC_5124 (Small).JPG関門橋
タグ:中山主膳
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

甲宗八幡神社 [門司]

  貞観元年(八五九年)奈良大安寺の僧 行教に詔あって、宇佐八幡宮を平安京の鎮護として山城国男山にお遷しする途次、神輿を門司関に休めた。この地は神宮皇后が三韓出兵後、穴門豊浦宮に還御したとき、三韓の親交船が入港した門司関(着船の地名をそれぞれ白木崎、葛葉、小森江と云)で、この関はわが国の西門に当たる要津である。
ときに筆立山の麓に、白旗八旈が天より降下し、光日月の如く行教の袈裟を照らす。・・・・
(宇佐)大神の応現固(まこと)に疑う可からざる地なりとの霊感があった。
 そこで翌二年(八六〇年)大宰大貮清原眞人岑成(たかなり)は勅命を奉じ、宇佐神宮の御分霊をうけ、神宮皇后着用の御甲を神霊(御神体)として賜り、宇佐の大神義勝を祭主としてこの地に創建した。
 よってその御甲を神璽と鎮め、外朝西門鎮守甲宗八幡宮と称し、略称を門司八幡宮と申し上げた。

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P18

DSC_5094 (Small).JPG甲宗八幡神社


タグ:中山主膳
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

和布刈神社 [門司]

 創立 仲哀天皇九年(二〇〇年)
 当社祭神彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は、「海幸山幸」に由緒ある神で、兄神の隼人族始祖火蘭降尊(ほのすそりのみこと) より、隼人族のまつりごと即ち「毎歳除夜に和布を刈り神前に供える」ことや海神の潮干珠、潮満珠の秘伝を相承されたいわれがある。
 神宮皇后は角鹿(つねが)(敦賀)より豊浦に向かう海中にて、如意珠を得、後に海神の末裔阿曇磯良神(あずみいそらのかみ)より より、この両珠の秘伝を授かり、三韓に出兵した。
 皇后は帰国後、豊浦宮に殯宮(ひんきゅう)(葬らない前に祭りを行う宮殿)を長門に住吉神の荒魂を祭り、同時に速門(急潮奔騰するので)の故地に、阿曇磯良神の幸魂、奇魂に併せて皇神等を祭られた。
ときに仲哀天皇九年で、これが和布刈神社のはじまりという。

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P34

DSC_5067M (Small).JPG

さらに詳しく


タグ:中山主膳
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

封建後期の門司 [門司]

一六四三年(寛永二十年)江戸幕府は武家諸法度を定め、参勤交代の制が設けられると、九州の諸大名は小倉、大里から渡海するものが次第に多くなり、大里は宿駅として大いに賑わった。
~中略~
宝暦・天明の頃(一七五一年~)より蝦夷地を含む近江商人の流通独占が崩れ、人、貨物の動きが大阪商人を中心として盛んになった。
 田野浦は風待ち潮待ち日より待ち、船たで等の必要から赤間ヶ関の補助的存在となり、北前船の寄港地として繁昌したが、享保の頃よりこれに目をつけた抜荷船が出没するようになり、当局は厳しく取り締まりを行った。

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P5

TS3E0294 (Small).JPG

さらに詳しく


タグ:中山主膳
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

壇の浦合戦 [門司]

   さて、義経軍は周防(山口県)に進出し、兄の範頼軍と合流した。  一方、平家軍は長門の引島(ひくしま)(彦島。下関市)に移動したが、これを受けて、源氏軍も同国の追津(下関市)に転進した。追う源氏に引く平家という戦況を、そのまま映したような地名に奇縁があった。
~中略~
 一一八五(元暦二)年三月二十四日午前六時ごろ、田の浦・門司の関(北九州市)と壇の浦・赤間の関(下関市)で源平両軍が宣戦布告の矢合わせをすることになった。  

平家物語
角川書店 (編集)
角川書店 (2001/09))
P232   

l3_img1 (Small).jpg

さらに詳しく


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感