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浄不浄をきらわず [宗教]



 熊野詣が盛んになった背景にはいくつもの「物語」は必要であった。この地でいかなるご利益があったのか、いかなる奇跡が引き起こされたのか。多くの人びとがそれを待ち望んだことから、熊野をめぐるさまざまな説教節(仏教的な説話を興業的に語って聞かせるもの)が日本中に広まっていくことになる。なかでも小栗判官が湯の峰温泉のつぼ湯で蘇生したというエピソードほど人気を博した物語は他にないだろう。
~中略~
 この物語が広く普及したのには、その背景に「浄不浄をきらわず」という熊野信仰の神髄がよく表されているからだといえよう。
それでなくとも、小栗の精力絶倫ぶり、照手姫とのロマンス、閻魔大王、餓鬼阿弥、供養、死と再生、熊野の霊験、つぼ湯の奇跡など、読み物としても奇想天外のおもしろさを兼ね備えており、その流行により、熊野と「小栗判官」とは切り離すことができない関係となっていったのである。
 この「浄不浄をきらわず」という点において、「小栗判官」と並んでよく引き合いに出されるのが、和泉式部の熊野詣のエピソードである。
彼女は伏拝(ふしおがみ)王子付近にやってきたところで月の障り(生理)になってしまい、これではせっかく来たのに本宮参拝もままならぬと次のような歌をよんだ(加藤隆久監修「熊野大神」」戎光祥出版、二〇〇八年、一四八-一四九頁)。
 晴れやらぬ 身のうきくものたなびきて 月の障りとなるぞ悲しき
 (せっかくここまで来たのに、こんなところで月の障りにあってしまうなんて)
ところが、その夜に熊野権現が夢に現れて、次のように告げたという。
 もろともに 塵(ちり)に交わる神なれば 月の障りもなにか苦しき
 (もともと世俗と交わる神であればこそ、月の障りなどまったくかまいませんよ)
 その信託を得た和泉式部は無事に本宮参拝を果たすことになる。

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
植島 啓司 (著), 鈴木 理策=編 (著)
集英社 (2009/4/17)
P80











DSC_6416 (Small).JPG熊野那智大社

P122
 たとえば、十四世紀の出来事として、熊野と高野山が課税権であらそった事例が残されている。
高野山側は、高野山は「鎮国安民の道場、高祖明神常住の霊崛(れいくつ)であるのに対して、熊野は「他国降臨の神体、男女猥雑の瑞籬(みずがき)」と非難している。(高野山文書、一三七二年)。
すなわち、高野山は、国を鎮め民を安らかにする道場で、弘法大師が常住している霊妙なところであるのに対して、熊野は、外国から来臨した神を祀っており、境内には男女が入り乱れているというのである(小山靖憲「熊野古道」、一〇六頁)。
 しかし、いまから考えると、高野山が女人禁制を厳しく守ったのに対して、熊野が女性や下層民のみならず、すべての人びとを「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず」受け入れたというのは、当時としてはむしろかなり例外的なことではなかったか。高野山が日本屈指の聖地であることは否定できないが、当時は不治の病とされていたハンセン病患者もためらわず受け入れた熊野の懐の深さにはまた驚きの念を禁じえない。~中略~
そもそも高野山にしても、インドの仏陀なくしては存在しえなかったのではなかろうか。











タグ:植島 啓司
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