鮭の子 [言葉]
かつて田中清玄氏が「山本さん、こういうことを知っているか。会津は朝敵だったから秩禄公債はもらえなかったんだ。
松平家から勢津子妃が秩父宮家に嫁入りされるとき、はじめてもらったんだ」と。
「ヘエー、そんなことが・・・・・」と私は驚いたが、これでは士族という意識が逆に強く残るであろう。そうでなくとも戊辰戦争の敗戦藩の方が士族意識は強く残り、それは明治以後まで尾をひき、奇妙な形で終戦時まで明確に残っていたものも少なくない。
「負けて禄を取り上げられた」という怨念が勝者より強く残ったからであろうか。~中略~
村上出身の家内の話を聞いたとき、田中清玄氏の言葉を聞いた時のような驚きを感じた。
「そうじゃないのよ、小藩の士族ってそれくらい貧乏だったってことよ。有名な堆朱(ついしゅ)だって士族の内職よ」「ま、そりゃ確かにそうだろう。村上は内藤藩五万石か。城を持てない陣屋大名、いや小名だな。あの地方を調べた人が言ってたなあ。豪農の家の方が陣屋よりはるかに立派なものも少なくないってね。~中略~
内藤藩は財政に苦しみ、そこで三面(みおもて)川の鮭漁を藩営にし、その収益を武士の子弟の教育費とした。そしてこれが廃藩置県後もそのまま残り、終戦まで士族の子孫は鮭漁の収益で学費免除となったが、農工商はその特権がなかった。
そこで「鮭の子」という言葉が生まれたのだが、それが何と私の義妹の時までつづいていたわけである。
「御時世」の研究
山本 七平 (著)
文藝春秋 (1986/05)
P54
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