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歴史をつくる歴史家 [ものの見方、考え方]

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 司馬遼太郎さんは、作家であると同時に、歴史について調べ、深く考えるという意味においては歴史家でもありました。しかし、他の歴史家と、司馬さんは一線を画しています。
司馬さんは、ただの歴史小説家ではありません。「歴史をつくる歴史家」でした。  非常に稀ではありますが、日本史史上何人かこうした歴史家は存在します。歴史というのは、強い浸透力を持つ文章と内容で書かれると、読んだ人間を動かし、次の時代の歴史に影響を及ぼします。
それをできる人が「歴史を作る歴史家」なのです。
 後世の歴史に影響を与えたと言っていい最初の歴史家は、もしかすると「太平記」の作者とされる小島法師かもしれません。小島法師は琵琶法師と言われており「太平記」で後醍醐天皇の即位から細川頼之(よりゆき)の管領就任までの半世紀に及ぶ南北朝の動乱を描きました。
 この「太平記」が、一躍スターに押し上げたのが楠正成です。~中略~
 「太平記」が楠正成を忠義の士として、あれほど叙情的な美しい名文で描いていなければ、後の歴史は違ったでしょう。明治維新は、私たちが知っている形にはならなかった公算が高いと思います。
 明治末の一九一一年になると、南北朝いずれの皇統が正統かをめぐる「南北朝正閏論」という論争がこの国に興ました。 ~中略~
 日本の現在の皇室は北朝の系統ですが、明治天皇はこれを裁断し、楠正成が仕えていた南朝が正統であると決定しました。陸軍の軍人たちも軟調の正統性について論じるなかで、国家主義的な思想を固めていきます。
 こうして第二次大戦の敗戦時まで、日本の国家では南朝を正統とする議論が正しいとされていました。「太平記」に書かれた歴史観が、昭和以降のわれわれの歴史にまで影響を与えていると言えるのです。

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 その後、歴史に影響を与えた主要な歴史家は三人しかいない、と私は思っています。一人は、約二〇〇年前に「日本外史」を著(あらわ)した頼山陽(らいさんよう)です。彼は広島藩の儒学者の家に生まれました。 ~中略~
広島藩を脱し、その罪で自宅に軟禁されている間に、「日本外史」の執筆に取りかかり、源平から徳川に至る武家の興亡史二二巻を書き上げます。幼いころから英才教育を受けていた頼山陽の筆は超絶したもので、この「日本外史」は当時のベストセラーとなりました。
 彼はこの書によって、日本は本来天皇が治めていたもので、武家の世とは一種の「借り物」のようなものであることを当時の日本人に認識させました。それが尊皇攘夷の気運をかき立て、明治維新を実現させるという形で歴史を変えたことがご承知かと思います。
 もう一人は、作家・ジャーナリストとして長く活躍した徳富蘇峰(とくとみそほう)です。蘇峰は熊本藩の庄屋の家に生まれ、キリスト教や西洋の学問を早くから取り入れていた熊本洋学校で教育を受けて、明治時代に日本で最も影響力の大きなジャーナリストとなりました。
~中略~
 この蘇峰こそ、「近世日本国民史」全一〇〇巻を書き、日本人の歴史観をはっきりと規定した人です。おそらく、国民国家日本の成り立ちを、豊富な史料を駆使して日本人に認識させた最初の人が蘇峰であっただろうと思います。
 彼は熊本の出身だったと書きましたが、面白いことに、日本近代を考えるうえで、この熊本出身者というのは非常に重要です。歴史観をつくった蘇峰の他に、大日本帝国憲法※2の制定におおきく関わった井上毅(こわし※3)、また、その井上とともに教育の基本法にあたる教育勅語※4を起草した元田 永孚(もとだ ながざね※5)も熊本の人です。
~中略~
 そして頼山陽、徳富蘇峰に続く三人目の歴史家が、司馬遼太郎さんということになります。~中略~
 司馬さんはその作品世界を大量の著書によって国民に提供してくれました。特に文庫という安価で入手容易な形をとって、著作が日本家庭の書棚に入り込み、その叙述が映画やテレビ番組に翻案されていった点は重要です。日本人の多くは司馬作品を通じて日本の歴史に接し、その歴史観をつくったと言って過言ではないでしょう。  

「司馬遼太郎」で学ぶ日本史
磯田 道史 (著)
NHK出版 (2017/5/8)

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タグ:磯田 道史
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