アガル [ものの見方、考え方]
場なれないためにアガってぞんざいになった人は、どんなに本意ないことでしょう。アガルというのは天婦羅鍋を考えてくださればいい。
目方が軽くなって、浮き漂った形です。ほっておくと鍋の中をぐるぐるまわりだします。
よく似ているとお思いになりませんか。たいていの場合は、アガったという自覚があって、その恥ずかしさがひどく隠したく、何でもいいから早くその場をのがれたい気になる。だからお焼香などのその早業!
~中略~
アガリをどうすればいいか。
熱を下げればすぐ治ります。
熱さを逃がす通路をあければいいので、その通路づくりは自分自身に工夫がいりますが、大体アガった時はものがよく見えず、霞んでしまうようですから、なにか一点を集中してはっきり見ようとすることは如何でしょう。
幸田 文 (著), 青木 玉 (編集)
幸田文しつけ帖
平凡社 (2009/2/5)
P171
地蔵埼1
流れを見る [ものの見方、考え方]
「病」といのは流れなんです。ずうっと流れているの。そして、流れのある時点で、今ここに患者が現れてくる。
今の時点で、これまでの流れを「どういう流れなのかなあ」と思って見る習慣をつけることによって、流れを見るセンシティビティが高まる。「こういう症状があるかな?ないかな?」と見るのとは違うの。
「病気全体がどういう流れかなあ」と、病の全体の流れが見える医者になれます。
神田橋 條治 (著), 黒木 俊秀 (編集), かしま えりこ (編集)
創元社; 初版 (2013/9/3)
P017
無料の魅力 [ものの見方、考え方]
たいていの商取引にはよい面と悪い面があるが、何かが無料!になると、わたしたちは悪い面を忘れ去り、無料!であることに感動して、提供されているものを実際よりずっと価値のあるものと思ってしまう。
なぜだろう。
それは、人間が失うことを本質的に恐れるからではないかと思う。
無料!の本当の魅力は、恐れと結びついている。無料!のものを選べば、目に見えて何かを失う心配はない(なにしろ無料なのだ)。
予想どおりに不合理[増補版]
ダン アリエリー (著), Dan Ariely (著), 熊谷 淳子 (翻訳)
早川書房; 増補版版 (2010/10/22)
P96
予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 増補版
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2010/10/22
- メディア: ペーパーバック
崇福山 安楽寺4
ポジション・チェンジ [ものの見方、考え方]
「第1の位置」は自分自身の視点です。自分の考え方を持ち、自分の感情を感じます。
「第2の位置」は相手の視点です。あたかも、自分がその相手であるかのように、相手の考え方を持ち、相手の感情を感じます。
「第3の位置」は第三者の視点です。自分でも相手でもない中立的・客観的な視点です。
脳と言葉を上手に使う NLPの教科書
前田 忠志 (著)
実務教育出版 (2012/3/23)
P113
道具を駆使すべき [ものの見方、考え方]
「武士というものは大将でも兵卒でも二本の刀を腰につけるものだ。(略)
この二刀の効用を悟らせるためにこそ、わが流を二刀一流というのである。
わが流においては、初心者のうちから太刀と刀を両手に持って修行する。これが二刀流の真髄である。生命をかけて闘うとき、持っている道具のすべてを駆使すべきであろう。役に立てず、腰に納めたまま敗死するようなことは正しくない。
~略~
(この一流を二刀流と名づけること)
奈良本 辰也 (著)
宮本武蔵 五輪書入門
学習研究社 (2002/11)
P86
東大寺大仏殿1
安全と水はタダでない [ものの見方、考え方]
P31
ああ、日本人は何と幸福な民族であったことだろう。自己の安全に、収入の大部分をさかねばならなかった民と、安全と水は無料で手に入ると信じ切れる状態に置かれた民と、
P34
思いつめたからといって、自己の生存も、自己の安全も、自己の希求も確保できない。
これらすべては、自らの手で、高いコストをかけて、保存しなければならない、というのが、二千年の体験から割り出したユダヤ人の結論であり、日本人と根本から違う点なのである。
日本人とユダヤ人
イザヤ・ベンダサン (著), Isaiah Ben-Dasan (著)
角川書店 (1971/09)
扉を開けおきたい衝動 [ものの見方、考え方]
いずれの場合も、かならずしも意識しているとはかぎらないが、わたしたちはこうした選択肢を残すためにほかの何かを手放している。
たとえば、必要以上に高性能のコンピュータや、無駄な保証のついたステレオを大金をはたいて買うはめになる。
子どもの習いごとの場合、こどもにさまざまな活動を少しずつでも経験させようとするあまり、子どもと自分の時間を―そして、子どもがひとつのことにほんとうに秀でる機会を―手放している。
予想どおりに不合理[増補版]
ダン アリエリー (著), Dan Ariely (著), 熊谷 淳子 (翻訳)
早川書房; 増補版版 (2010/10/22)
P247
予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 増補版
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2010/10/22
- メディア: ペーパーバック
己高閣
危険なバブルの見分け方 [ものの見方、考え方]
文明と災害 [ものの見方、考え方]
寺田寅彦は、「文明が進めば進むほど天然の猛威による災害が、その激烈の度を増す」
(「天災と国防」昭和九年一一月、「寺田寅彦全集第7巻」所収、岩波書店)
と書いている。文明の進展とともに世の中が一様化され集約化されるから、天災による一つの部分の破綻が全体に対して致命的となるということを指摘したのだ。
この七七年前の言葉が不幸にも現代日本において的中してしまった。
この間、さらに科学・技術が発展し、高層建築、巨大ダム、高速道路、高速列車など、寺田寅彦の時代とは様変わりし、天災に対してより脆弱な社会構造としてきた。
科学・技術にによって自然が克服できると錯覚し、科学者・技術者はせっせと自然改造に勤しみ、人々もそれを歓迎して欲望を膨らませていったためだ。
同文章で、寺田が「文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた」と書いている通りである。
無限の繁栄が続くと誤認して。
専門家の社会的責任
池内 了 (名古屋大学名誉教授)
世界 2011年 05月号
岩波書店; 月刊版 (2011/4/8)
P54
今が幸せ [ものの見方、考え方]
それまでの私は、時間管理が下手でやたらと詰め込みすぎてしまうところがあり、「今は大変だけれども将来は楽になる」とか、「今頑張れば、次はきっといいことがある」「先の幸せのために今を犠牲にして我慢する」という考え方でずっと過ごしてきたんです。
けれども、今を頑張って耐え忍び苦しみを生き抜いたとして、その先の楽しみがあるかというと、そこはまた、新たな試練、苦しみが待ち受けているだけなんですよ。
ということは、自分の幸せや楽しみはいくら先送りしても、結局、そこに辿り着けないわけですよね。
だとしたら、幸せを先送りするのではなく「今」を大切にし、「今が幸せ」と感じられるような生き方こそが、効率とは異なるもうひとつの時間の価値なのではないか。そう考えるようになったのです。
“司法試験流” 知的生産術
伊藤 真 (その他), 野田 稔 (その他)
NHK出版 (2012/1/25)
P66
“司法試験流” 知的生産術 2012年2月 (仕事学のすすめ)
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2012/01/25
- メディア: ムック
藤松小学校運動会
あんたにオレの苦しみがわかってたまるか! [ものの見方、考え方]
リエゾンでがんの終末期患者の枕元を訪れたときに、
「あんたみたいに健康な奴に、オレの苦しみや恐怖がわかってたまるか!」
と怒鳴られたとしたら、わたしは答えるだろう。
「おっしゃる通りです。わたしは健康ですし、あなたではないのだからあなたの苦しみを体験することなどできません。ただし、自分なりに過去のつらい経験をもとにあなたの気持ちを類推しようと努めていますし、もしわたしがあなたと同じくらい苦しんでいたら、知恵を出す余裕もなくなってしまうでしょう。
今のわたしは、あなたよりも苦痛が軽くなくては使命を果たせないのです」
偏狭な経験主義に屈する必要などないのである。
「治らない」時代の医療者心得帳―カスガ先生の答えのない悩み相談室
春日 武彦 (著)
医学書院 (2007/07))
P012
「治らない」時代の医療者心得帳―カスガ先生の答えのない悩み相談室
- 作者: 春日 武彦
- 出版社/メーカー: 医学書院
- 発売日: 2007/07/01
- メディア: 単行本
君にできること [ものの見方、考え方]
五四 至るところ、至る時において君にできることは、現在自分の身に起こっている事柄にたいして敬虔な満足の念をいだき、現在周囲にいる人びとにたいして正義にかなった振舞いをなし、現在考えていることに全注意を注ぎ、充分把握されていないものはいっさいそこに忍び込む余地のないようにすることである。
マルクス・アウレーリウス 自省録
マルクス・アウレーリウス (著), 神谷 美恵子 (翻訳)
岩波書店 (1991/12/5)
P132
拙速と入念精美 [ものの見方、考え方]
裁縫は二た通りにする。不断着は拙速で事足り、いいものは入念に時間をかける。
不断着は清潔第一とするからしばしば交替せねばならぬ、しばしば着かえるには手入れは敏速にせねばならぬ、敏速の実を挙げるためには拙はまた已むを得ない、一寸三針五分一針結構という。
その代わり、いいもの、男物はそうは行かない。男はよそで衣服を脱ぐ場合もままある、脱いだ衣服の始末は必ず他家の子女の手にかかる。
また特にいい着物を着て出る場合は、同座する者もまたきっと綺羅を張っている、すなわち品評会である。ものがよければよいだけに、粗相粗雑な針目は目に立って屈辱この上ないのだから、入念精美を要する。たっぷりと時間をかけるべきだ、と。
幸田 文 (著), 青木 玉 (編集)
幸田文しつけ帖
平凡社 (2009/2/5)
P19
大山寺山門
昔起こった出来事をよくながめろ [ものの見方、考え方]
四九 昔起こった出来事をよくながめ、現在おこなわれつつあるすべての変化をながめれば(47)、未来のことも予見することができる。
なぜならそれは必ず同様のものであろうし、現在生起しつつある物事のリズムから離れるわけにいかないであろうから。
したがって人生を四十年間観察しようと一万年観察しようと同じことだ(48)。これ以上なにを見よううか。
マルクス・アウレーリウス 自省録
マルクス・アウレーリウス (著), 神谷 美恵子 (翻訳)
岩波書店 (1991/12/5)
P130
批評は批評の都合上書くもの [ものの見方、考え方]
私は、かって新聞社につとめて、美術批評を書いていたことがあった。こんにちの美術批評という性質上、むろん現代の苦悩と対決した絵に、私は多くの賛辞をおくった。様式の古い絵は、いかに立派でも、フォルムが古いというだけで批評の対象にしなかった。それが私の職責だったから私はべつに悔いてはいない。
批評というものはそれだけのもので、批評は批評の都合上書くものだからだ。
しかし、所詮は、批評といういうものは他人あいさつなものらしい。芸術を、ほんとうに生活の友人として迎えねばならぬ場合になると、もはや他人行儀などは申していられなくなる。
やや古くさいコートをきていても、心のがっしりした友人と、手をにぎりたくなる、やや古くさいコートをきていても、心のがっしりした。友人と、手をにぎりたくなるものである。流儀ばなと新花のばあいもこういうことがいえるのではないか。
(昭和36年4月)
司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P256
司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)
- 作者: 遼太郎, 司馬
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/12/22
- メディア: 文庫
「安全性」の原点 [ものの見方、考え方]
今、AとBの二人が、ある氷の岩との殿堂を攀じっていると想像し給え。Aは百戦功を経たエクスパートであり、Bは初めて氷にアックスを揮(ふる)うビギナーである。
Aのステップは簡単で浅く、軽いリズムでどんどんと登って行くのに反して、Bの不安は彼のステップを歩一歩深く切り下げさせ、慎重に慎重を重ねた重いリズムで徐々に登って行く。
岩場においてもAのリズムはあくまでも軽やかに、僅かのホールドに安んじて彼の体軀を進ませ、Bはあちこちとルートを考え求めて、安心の出来る所に至って初めて自重しながら登高する。
Aはエクスパートであり、常に落ち着いた心境に安住して軽い気持ちで登って行き、Bは同じく澄み切った心境にあるといえ、ともすればその一隅に潜むビギナーなるための不安に脅かされて、重い気持ちの圧迫から自重の上になおも自重を重ねさされる。
この時、―Aがもしエクスパーツのパーティであり、Bがビギナーの単独行ででもあった際は一層―事実においてBは世の登山家たちから「独りで?乱暴な!」との非難を避けずにはいられないものなのである。
しかし、このように「安全性」の原点よりしてある人の山登りを観察し、それに対して何らかの批判を下し得るものとして、考えて見給え、Aはこの際果たしてBよりも常に安全であり得るか、どうか?
そして、Bはバランスの不足を補うべく、あれだけ自重して登っても、やはり、ビギナーであるが故のみをもってして、「無謀だ」と斥けられねばならないのだろうか?
(一九二九・一一)
新編 単独行
加藤文太郎
(著)
山と渓谷社 (2010/11/1)
P119
マスメディアは権力装置である。 [ものの見方、考え方]
マス・ジャーナリズムが、あるいは官僚組織と化し、あるいは市場主義に侵され、また無意識の主観性を色濃く浸透させ、取材、報道という名のもとで暴力を行使し、ある種の情報操作を行うといったことに通じて、その内部から崩壊してゆくという危険と常に隣り合わせだということなのである。
~中略~
多くのジャーナリストが、ジャーナリズムの良心や倫理を持ち出すとき、その意味は、国家権力や社会的圧力に屈するべきではない、報道の自立と公正を守るべきだと言われる。しかし、今や、マス・ジャーナリズムは権力や圧力からの被害者であるというよりも、時には、それ自体が世論を動員して、権力を発動する機構ともなっているということなのである。
現代民主主義の病理―戦後日本をどう見るか
佐伯 啓思 (著)
日本放送出版協会 (1997/01)
P145
現代民主主義の病理 戦後日本をどう見るか (NHKブックス)
- 作者: 佐伯 啓思
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 1997/01/01
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
平常心で臨んでも、いい結果は出ません [ものの見方、考え方]
「平常心で試合に臨む」
そういう言い方をするアスリートもいます。その人が言う平常心とはどのような状態なのかわかりませんが、理論的には平常心という状態は、「興奮の度合いが低く、不安をあまり感じていない状態」のことを指します。
しかし、そういう状態で行われたパフォーマンスは、じつはもっとも完成度が低いのです。これは、科学的に証明されていることです。平常心で臨んでも、決していい結果は出ません。
すしろ、適度に興奮し、不安もある程度抱えている状態のほうがいいパフォーマンスができると言われています。不安があればより集中しようとするし、準備も入念に行わざるをえないからです。
ですから、平常心でいられなくなるとうのはあたりまえで、むしろ好ましい傾向と言えるのです。
ラグビー日本代表を変えた「心の鍛え方」
荒木 香織 (著)
講談社 (2016/2/19)
P44
個性と我 [ものの見方、考え方]
ぼくが桂離宮を撮って三年目のこと、楽器の間の飛石を撮影しているときに、飛石がピントグラスを割って目に突き刺さるように見えた。
あ、写るというのはこれだな、と。
そのとき喜びが足の裏から噴水のように上がってきて頭のてっぺんからビューっと中央に伸びるような体験をしました。
それから自分の写真が変わりました。事務所でそれまでに撮った二千枚くらいのカラー・フィルムを鋏でちょん切り、その後の写真でまとめたのが「桂離宮」(講談社・一九七七年)です。
土門拳の作品は実存に直接アタックしていく写真ですから、学問では探求できない世界。言葉で聞いてわかるというものじゃないんです。
土門さんは「自分が小さくなって消えてしまう写真がいい」といっていますが、~中略~
現代の芸術は作家の主観が出ていることを尊重しますが、土門拳はそんなもの完全に否定した。作家の個性が出ているような写真は失敗作だという考えです。
西川 孟
古寺を訪ねて―東へ西へ
土門 拳 (著)
小学館 (2002/02)
P194
藤松小学校
いてまえに落とし穴が潜んでいる [ものの見方、考え方]
―冷たい雨に打たれながら前進している。風も強く、体が冷えてきて寒い。フリースを1枚着込み大河たいが、あと30分も辛抱したら避難小屋に着きそうだ。立ち止まってザックを下すか、それとも歩き続けるか―
もしかしたら、歯を食いしばって前進し、一刻も早く避難小屋へ到着したほうが結果としてよかったという場合があるかもしれません。でも、私なら30分後の避難小屋よりも今の寒さをなんとかするために、ザックを下してフリースを着ます。
体が発しているシグナルを大切にして、寒いと感じたら着る、暑ければ脱ぐ、そうシンプルに行動する方が好結果を生むと経験的に知っているからです。その30分の間に低体温症で行動不能にならないとも限りませんね。
実をいうと、立ち止まる、ザックを下す、フリースを取り出す、着るという一連の動作は、とても面倒なんものなのです。
好天時ならなんともないのに、雨や雪や強風など状況が厳しくなればなるほど一つ一つの動作が億劫になるんですね。そこに落とし穴が潜んでいるような気がします。小さな穴ですが、ときには生死を左右するかもしれないと認識すべきです。
~中略~
ゴー、ステイ、バックという三つの選択肢があるとき、どれが正解かは一概には言えません。天候、ルートの難易度、装備、そのパーティなりう個人なりの力量といった要素が複雑に絡んでくるからです。しかし、一つ言っておきたいのは、ステイやバックを選ぶには決断と勇気がいるということ。そのため、厳しいと分かっていながらも、ひたすらゴーとなってしまう。
そうした遭難事例が多いように思えてなりません。
山登りにおいてゴー(前進)は、ある意味前提ですからね。ゴーを選択したというのは、決断を先送りしたのと同義とも言えるわけですよ。たとえていえば、車にタイヤチェーンを装着するケースとよく似ています。
登山力アップの強化書
徳永 哲哉 (著)
西日本新聞社 (2017/6/19)
P079
土地医者、土地坊主 [ものの見方、考え方]
南 ぼくももう五十歳ですが、医者って聞くと今でも年上のような気がします。お医者さんって自分がたよりなくなってるときに会ってるわけだから、立場が弱いんです。
養老 「土地医者、土地坊主はダメ」って言うのもそのためでしょう。子供の時から知ってる医者だと、「あのガキが・・・」って覚えている人がいますから。そうなると立場が逆転して、もう信頼されなくなる可能性が高い。
実は預言者が故郷にいられないというのもそれに近いんじゃないかと思います。偉そうなこと言っても、近所に「あたしがおんぶして、おしめ替えてやった」なんておばあさんがいてね(笑)。
解剖学個人授業
養老 孟司 (著), 南 伸坊 (著)
新潮社 (1998/04)
P174
門司駅
データを先に見る [ものの見方、考え方]
サラリーマンをしていると、人を説得するためにデータをそろえる必要が出てくることがよくあります。~中略~
実のところ、自分の考えを補強するデータが見つかったからといって、それが事実とは限らないからです。試しに、反対の意見を補強するデータを検索してみましょう。おそらく、出てくるはずです。~中略~
こういうときは、元になっているデータを見てみましょう。できれば、だれかが解釈したデータではなく、解釈がなされる前のものを見ることです。
繰り返しますが、ここまでをまとめると、大事なことは次の三つです。
①データを先に見る
②だれかが解釈する前のデータを見る
③自分の仮説に反するデータも集める
不透明な時代を見抜く「統計思考力」
神永 正博 (著)
日本経済新聞出版社; 改訂版 (2013/11/2)
P26
旅に出よう [ものの見方、考え方]
歴史と真実 [ものの見方、考え方]
ひとつの史実については、複数の本で調べ、そこから得られた情報を総合して、自分の意見を持つようにするといい。
せいぜいそこまでが、歴史という学問の手の届く範囲だと私は思っている。残念だが、「歴史的真実」など知ることはできないのだ。
歴史書を読んでいると、歴史的事件の動機や原因が書かれていることがあるが、それをそのまま信じてはいけない。
その事件にかかわった人物の考え方や利害関係を考慮に入れたうえで、著者の考察が正しいかどうか、ほかにももっと可能性の高い動機はないか、自分で考えて見ることが大切だ。
その時、卑屈な動機やささいな動機を切り捨ててはいけない。というのは、人間は複雑で、矛盾だらけの生き物だからだ。感情は激しく移ろいやすく、意思はもろく、心は体調に左右される。
父から若き息子へ贈る「実りある人生の鍵」45章
フィリップ・チェスターフィールド (著), 竹内 均 (翻訳)
三笠書房 (2011/3/22)
P83
父から若き息子へ贈る「実りある人生の鍵」45章 (知的生きかた文庫)
- 出版社/メーカー: 三笠書房
- 発売日: 2011/03/22
- メディア: 文庫
現場に行って感じる [ものの見方、考え方]
P35
しばしば経験してきたことだが、その場に入るだけで一瞬にして空気が変わってしまうことがある。
沖縄本島や宮古島の御嶽(うたき)とよく似た感覚が甦ってくる。
ご神体は磐座(いわくら)といっても、ただの岩ではない。崖一面に広がる巨岩である。いまでも「日本書紀」に記されたそのままの神事(お縄掛け神事)が行われているというが、たしかにもっともプリミティヴなかたちででの信仰形態がいまなお生きているように思われる。
そして、この花の窟をめぐる「日本書紀」(紳代巻一書)の以下の記述こそが、熊野が記紀にその姿を現した最初だったのである。
伊弉冉(イザナミ)尊、火神(軻遇突智(かぐつち)、を生む時に、灼かれて神退去(かんさ)りましぬ。故(かれ)、紀伊国の熊野の有馬村に葬(はぶ)りまつる。土俗(くにひと)、此の神の魂(みたま)を祭るには、花の時には亦(また)花を以て祭る。
又、鼓吹幡旗(つづみふえはた)を用(も)て、歌い舞いて祭る。
花の窟には伊弉冉尊という謂われが残されており、ご丁寧にもそのすぐ前には軻遇突智の墓(塚)まである。
しかし、そんなことはどうでもいい。ここにはもっと違ったものが隠されている。「古事記」「日本書記」以前から、すでにここが特別な場所であったことはほぼまちがいない。
P55
神仏習合、本地垂迹、修験道などの言葉によって物事を理解したつもりになってはいけない。
つねに観念が先にあるのではなく、まずはそこで起こった事実を見つめようとしなければならない。観念はすぐに古くなるが、事実は色あせない。人間はいつか死ぬが、何かを媒介にしてはならない。熊野をじかに見ずしては、永遠に熊野を語ることはできないのである。
世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
植島 啓司 (著), 鈴木 理策=編 (著)
集英社 (2009/4/17)
プレ・パフォーマンス・ルーティン [ものの見方、考え方]
ボストン・レッドソックスの上原浩治投手も、シーズン中に判で押したような毎日を送るそうです。試合当日も、ナイトゲームなら昼過ぎに球場に入り、ほぼ決まったメニューの食事をとり、マッサージを受ける。それからウェイトトレーニングを行い、試合前のウォ―ミングアップ。試合がはじまれば、二イニングか三イニング目にブルペンに向かうといいます。
その一連の流れが上原投手の準備であり、それを積み重ねるからこそ、結果が出る―上原投手は著書のなかでそのように語っています。
事実、長生きされている方も、毎日同じ時間に起きて、同じものを食べて、同じことをする・・・・・というリズムを崩さない方が多い。そうすることが心理的安定につながっているのです。
ラグビー日本代表を変えた「心の鍛え方」
荒木 香織 (著)
講談社 (2016/2/19)
P34
野次馬根性を制御せよ [ものの見方、考え方]
人というのは、おもしろい生きもので、野次馬というやつをこころのなかに飼っています。
野次馬は、当たり前のことや、わかりやすいことを好みません。いろんな視点が出てくることをよろこびます。その見方が強く感情に訴えるものだったり、強い興味をひくようなものだったりしたら、おおいにこころを騒がせます。
視点どうしが対立して激しい応酬があったりしたら、格闘技をみるようにそのスリルをたのしんだりもします。
そして、こころの奥にある「たのしんでいる」ということを隠したままで、無垢な善意の人として心配そうに顔を曇らせたりもします。
ずいぶん、いやもな言い方をすると思われるかもしれませんが、人間の歴史にいちばんたくさん登場する人びとは、そんな場所に生きています。
怖くて、じぶんにも少し関わりがあって、ふだんの退屈な日々ののなかにはないような珍しいことがあったら、それはもう、大変豪華な禁断のおたのしみになるものです。
そして、さらに、そういう多くの人たちの薄暗い興味に合わせて、おもしろおかしい「ストーリー」をつくったり、煽り立てる人たちも出てきます。「怖くておもしろい」という情報は商売にもなりますし、人の知らないことを知っているという人は珍重されたりもしますから。
こういう構造は、ずっと変わらないできたことですし、ぼく自身の体内にも、野次馬の「薄暗いおたのしみ」に興奮する血は、どくんどくんと流れています。~中略~
人間という生きものが、進化してくる過程で、こころに「野次馬」を飼っているということは、きっとなにかの役に立ってきたのだと、このごろ思うようになりました。でも、それはそれとして困ったことも起きます。
よくわからないけれど、大変なことが起こった。そんなときに、「野次馬」が暴れまくると「事実」がどこになるのかわからなくなってしまうのです。
もうひとつのあとがき
糸井 重里
知ろうとすること。
早野 龍五 (著), 糸井 重里 (著)
新潮社 (2014/9/27)
P174
データの先にあるもの [ものの見方、考え方]
市場調査には次のような問題点がある。
消費者は自社製品をどれほど気に入っているか教えてくれるが、他社製品とどれほど違っているのかを語ってはくれない。ましてや、どうすれば消費者を驚かせられるかなど、聞きだせるはずもない。
イノベーションを実現するためには、市場調査から得られるデータの先にあるものを見なくてはならない。
ヤンミ・ムン (著), 北川 知子 (翻訳)
ビジネスで一番、大切なこと 消費者のこころを学ぶ授業
ダイヤモンド社 (2010/8/27)
P166
法隆寺 夢殿
展望は決めつけずに [ものの見方、考え方]
未来や可能性への展望において、僕らは、あらかじめゆとりを持って、決めつけずに生活をし、できるだけ線引きは曖昧にしておくべきである。―「森の生活」
ソロー語録
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(著), 岩政 伸治 (翻訳)
文遊社 (2009/10)
P61