野次馬根性を制御せよ [ものの見方、考え方]
人というのは、おもしろい生きもので、野次馬というやつをこころのなかに飼っています。
野次馬は、当たり前のことや、わかりやすいことを好みません。いろんな視点が出てくることをよろこびます。その見方が強く感情に訴えるものだったり、強い興味をひくようなものだったりしたら、おおいにこころを騒がせます。
視点どうしが対立して激しい応酬があったりしたら、格闘技をみるようにそのスリルをたのしんだりもします。
そして、こころの奥にある「たのしんでいる」ということを隠したままで、無垢な善意の人として心配そうに顔を曇らせたりもします。
ずいぶん、いやもな言い方をすると思われるかもしれませんが、人間の歴史にいちばんたくさん登場する人びとは、そんな場所に生きています。
怖くて、じぶんにも少し関わりがあって、ふだんの退屈な日々ののなかにはないような珍しいことがあったら、それはもう、大変豪華な禁断のおたのしみになるものです。
そして、さらに、そういう多くの人たちの薄暗い興味に合わせて、おもしろおかしい「ストーリー」をつくったり、煽り立てる人たちも出てきます。「怖くておもしろい」という情報は商売にもなりますし、人の知らないことを知っているという人は珍重されたりもしますから。
こういう構造は、ずっと変わらないできたことですし、ぼく自身の体内にも、野次馬の「薄暗いおたのしみ」に興奮する血は、どくんどくんと流れています。~中略~
人間という生きものが、進化してくる過程で、こころに「野次馬」を飼っているということは、きっとなにかの役に立ってきたのだと、このごろ思うようになりました。でも、それはそれとして困ったことも起きます。
よくわからないけれど、大変なことが起こった。そんなときに、「野次馬」が暴れまくると「事実」がどこになるのかわからなくなってしまうのです。
もうひとつのあとがき
糸井 重里
知ろうとすること。
早野 龍五 (著), 糸井 重里 (著)
新潮社 (2014/9/27)
P174
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