「安全性」の原点 [ものの見方、考え方]
今、AとBの二人が、ある氷の岩との殿堂を攀じっていると想像し給え。Aは百戦功を経たエクスパートであり、Bは初めて氷にアックスを揮(ふる)うビギナーである。
Aのステップは簡単で浅く、軽いリズムでどんどんと登って行くのに反して、Bの不安は彼のステップを歩一歩深く切り下げさせ、慎重に慎重を重ねた重いリズムで徐々に登って行く。
岩場においてもAのリズムはあくまでも軽やかに、僅かのホールドに安んじて彼の体軀を進ませ、Bはあちこちとルートを考え求めて、安心の出来る所に至って初めて自重しながら登高する。
Aはエクスパートであり、常に落ち着いた心境に安住して軽い気持ちで登って行き、Bは同じく澄み切った心境にあるといえ、ともすればその一隅に潜むビギナーなるための不安に脅かされて、重い気持ちの圧迫から自重の上になおも自重を重ねさされる。
この時、―Aがもしエクスパーツのパーティであり、Bがビギナーの単独行ででもあった際は一層―事実においてBは世の登山家たちから「独りで?乱暴な!」との非難を避けずにはいられないものなのである。
しかし、このように「安全性」の原点よりしてある人の山登りを観察し、それに対して何らかの批判を下し得るものとして、考えて見給え、Aはこの際果たしてBよりも常に安全であり得るか、どうか?
そして、Bはバランスの不足を補うべく、あれだけ自重して登っても、やはり、ビギナーであるが故のみをもってして、「無謀だ」と斥けられねばならないのだろうか?
(一九二九・一一)
新編 単独行
加藤文太郎
(著)
山と渓谷社 (2010/11/1)
P119
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2023-10-17 08:06
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