批評は批評の都合上書くもの [ものの見方、考え方]
私は、かって新聞社につとめて、美術批評を書いていたことがあった。こんにちの美術批評という性質上、むろん現代の苦悩と対決した絵に、私は多くの賛辞をおくった。様式の古い絵は、いかに立派でも、フォルムが古いというだけで批評の対象にしなかった。それが私の職責だったから私はべつに悔いてはいない。
批評というものはそれだけのもので、批評は批評の都合上書くものだからだ。
しかし、所詮は、批評といういうものは他人あいさつなものらしい。芸術を、ほんとうに生活の友人として迎えねばならぬ場合になると、もはや他人行儀などは申していられなくなる。
やや古くさいコートをきていても、心のがっしりした友人と、手をにぎりたくなる、やや古くさいコートをきていても、心のがっしりした。友人と、手をにぎりたくなるものである。流儀ばなと新花のばあいもこういうことがいえるのではないか。
(昭和36年4月)
司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P256
司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)
- 作者: 遼太郎, 司馬
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/12/22
- メディア: 文庫
【松田権六】(一八九六~一九八六)―批評―
どうすれば作品が良くなるかの予言を具体的にいい当ててこそ尊い真の批評
~中略~
松田にいわせれば〈欠点の指摘は・・・・発展や繁栄策とはならない〉〈どうすれば作品が良くなるかの予言をいい当ててこそ尊い真の批評で、この批評こそ創作につながる〉。
裏をかえせば、欠点のみをあげつらう批評は気にしなくていい。
他人の作品から学ぶ場合も〈欠点を指摘するような消極的勉強ではなく、予言の方の積極的勉強をすべき〉で、〈この優品を今作るとしたら、という見方が大切である〉ともいった。
自分を成長させるのは、こうした心掛けの積み重ね。松田は〈人間誰しも心掛け一つで、最初は僅かな自己訓練から始まり、その自力で発足させたものが続けるうちに習慣となり、その積み重ねがやがて驚くほど大きな成果をもたらすことになる〉といっている。
日本人の叡智
磯田 道史 (著)
新潮社 (2011/04)
P208
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