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思想家と革命家 [雑学]

横井小楠 は、実際生活の上ではいろいろと制約を負っていたが、思想家としてはきわめて自由な発想のあるひとである。しかし、彼の弱点はその思想家でしかないというところにある。
みずから一党を率いて天下に争乱を起こすタイプではない。

 竜馬は、その条件をもっている。彼は行動の人である。
~中略~ その竜馬に、海軍という技術を教えたのが海舟である。

勝海舟 (中公新書 158 維新前夜の群像 3)
松浦 玲 (著)
中央公論新社 (1968/04)
P100

DSC_6314 (Small).JPG 緒方宮迫西石仏

 松陰は革命のなにものかを知っていたにちがいない。革命の初動期は詩人的な預言者があらわれ、「偏癖」の言動をとって世から追いつめられ、かならず非業に死ぬ。松陰がそれにあたるであろう。
革命の中期には卓抜な行動家があらわれ、奇策縦横の行動をもって雷電風雨のような行動をとる。高杉晋作、坂本龍馬らがそれに相当し、この危険な事業家もまた多くは死ぬ。
それらの果実を採って先駆者の理想を容赦なくすて、処理可能なかたちで革命の世をつくり、大いに栄達するのが、処理家たちのしごとである。
伊藤博文がそれにあたる。松陰の松下村塾は世界史的な例からみてもきわめてまれなことに、その三種類の人間群をそなえることができた。

世に棲む日日〈2〉
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋; 新装版 (2003/03)
P162

P138
 新政権の部内にも、当然、鬱勃(うつぼつ)として不満をおさえかねている攘夷家が多数いた。
そういう部内の連中を、薩なら西郷、長なら木戸、土佐ならば板垣といった親分衆がそれぞれ最大の政治力を発揮しておさえていた。京都にむらがりあつまってきた雑多な新志士たちはもう一度第二の維新をおこそうと諸方で車座を組んでいたが、それらを暗にたきつけていたのは、新政権の部内の栄達した攘夷家たちだった。
 いけにえは、新政府部内における先端的な開明家だった。
 国民皆兵という、この当時における階級撤廃の衝撃を士族たちにあたえた村田蔵六(大村益次郎)が京都木屋町で襲撃されるのも、明治二年九月で、下手人は京都にむらがっていた新志士たちである。
 勝海舟と坂本竜馬に最大の影響をあたえた肥後出身の思想家で、新政府の官員だった横井小楠は、この新しいテロの季節の年の正月に殺される。
 というのが、斬奸の理由だった。小楠にはその萌芽があった。小楠に比肩できるような思想家は新政権におらず、翻って思うに、いつの時代でもまず殺されるのは思想家だが、小何の場合、その典型のようなかたちだった。村田の場合と同様、おそらく新政権の部内で糸を引いていた高官がいたであろう。

P165
 私は民俗学者の宮本常一氏の愛読者だが、その著作集の第四巻の「明治初年の伊豆諸島」の章の伊豆の新島のくだりに、
 島民の間に、もっとも強く印象に残っているのは上平主税(かみひらちから)である。大和明治維新のさい京都御所警備にあたっており、肥後の横井小楠と意見があわず、同郷の中井刀根男(とねお)をして小楠を斬らしめた。中井はそのまま行方不明になったが、首謀者としての主税は明治三年一一月この島に流された。主税は医術に長じ、この島で種痘をおこない、また産婆の術をつたえた。島民の子弟をあつめて塾をひらいて学問を教え、島民の啓蒙に努めた・・・・
 という記述がある。
 上平主税は年少のころ紀州に出て医術を松岡梅軒に学んだ。漢方ではあったが、当時紀州は種痘の先進地のひとつだった。このことが、伊豆新島にながされたとき島民を益することになったのである。医術を学ぶ一方、京都に出て出雲路大和守から国学を学んだ。そのことがかれを政治化させる一因にもなり、討幕運動から明治二年の横井小楠暗殺事件をひきおこすまでの政治的激情のなかに身を置くことになるが、配流(はいる)されてから本来そうであったらしい清雅なふんいきの人物にもどった。
 伊豆に九年いた。明治十二年赦(ゆる)されて十津川にもどり、同二十年、玉置神社の宮司になった。数年して死んだ。
 晩年の上平主税については、当時村役場の助役をしていた風川宣賢という人の談話が遺(のこ)っている。
「誠に親切で正直な方でした」
 と、いう。

街道をゆく (12)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1983/03)



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