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下関 [雑学]

   英国公使館の通訳官アーネスト・サトーはその著書の中で、
「四カ国公使の計画の中には、(住人注;下関戦争 )の賠償金の保障として下関付近を占領するといいう考えがあったのを私は知っていた」
 と、書いている。もっともサトーは、「占領したあと幕府に返上するつもりだが」という一項を入れているが、いったん返上して同時に永久租借するつもりであったことはまちがいない。
下関・彦島という、商業眼からみればじつに麗華で旨味のある地理的情景が―列強の極東政策の感覚で言えばあの宝石のような香港、厦門(アモイ)、上海の原石のように―映じていた。

世に棲む日日〈2〉
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋; 新装版 (2003/03)
P211

唐戸 (4) (Small).JPG 唐戸市場

P296
 下関はこの当時、西の大坂といわれたほどに商況の活溌な町で、下関の吉原とでもいうべきその遊里も堂々としている、そのなかでも大坂屋が最大の楼(みせ)で、遊女が二十三人もいた。
 晋作はその大坂屋に数日流連(いつづ)けていたが、一夜、身の危険を感じ、にわかに「裏町」とよばれる新興の色里に移った。

下関郊外の農村では、いまでも、
―馬関へゆく。  晋作が長崎で対面した英国商人グループなども、
「バカン」
 と、よび、バカンを開港すれば長州藩は栄えるでしょう、といったぐあいに晋作に語っている。
 もともとこの海峡の港市に対してよばれた伝統的呼称は、赤間関であった。ときに赤馬関とも書く。
「馬関」
   と、これを中国風に、いわばモダンな呼び方でよびはじめたのは、漢詩人であるらしい。
~中略~

一般の庶民までが、詩的な雅称のほうを通称にしてしまったのは、やはりこの藩のそういう教養主義的な気分が背景になっているのだろう。
 ところで下関という土地は、厳密には長州の本藩のものではない。長州には、本藩のほか、長府藩五万石と清末藩一万石、さらに徳山四万石の三つの支藩がある。
岩国六万石も、支藩にいれてもいい。それを総括して長州世界が構成されているのだが、何にしても防長二州三百七十方里の山河のなかには、本藩領と支藩領が入り組んでいる。
この下関の地は本藩領は西区域のほんのわずかしかなかった。ばかりか、大部分は長府領で中間あたりは清末領という、複雑な支配になっている。

世に棲む日日〈4〉
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋; 新装版 (2003/04)
P170


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